
黒田チカ(くろだ ちか)は、明治時代前期の1884年(明治17)3月24日に、佐賀県佐賀郡松原町(現在の佐賀市松原)において、父・黒田平八、母・トクの7人兄弟姉妹の三女として生まれました。1901年(明治34)に、佐賀師範学校女子部(現在の佐賀大学文化教育学部)を卒業し、小学校教員の職に就きましたが、翌年には、上京して女子高等師範学校理科へ進みます。
1906年(明治39)に同校を卒業し、福井県師範学校女子部に職を得ましたが、翌年には、女子高等師範学校の研究科に入学し、1909年(明治39)に研究科を修了し、同校の助教授となりました。1913年(大正2)に、女子に門戸を開いた東北帝国大学理学部化学科に帝大初の女子研究生として入学し、真島利行に師事、有機化学を研究します。
1916年(大正5)に東北帝国大学理科大学化学科を卒業し、日本女性初の理学士となると副手の職を得て、翌年に財団法人理化学研究所が設立され、主任研究員のl人となりました。1918年(大正7)に天然色素の研究『紫根の色素について』を東京化学会(現在の日本化学会)で発表、1921年(大正10)には、英国オックスフォード大学へ国費留学します。
1923年(大正12)に2年間の在外研究を終えアメリカ経由で帰国、東京女子高等師範学校講師となり、理化学研究所の真島研究室で紅花の色素の構造研究を始めました。1929年(昭和4)に「紅花の色素カーサミンの構造決定」で、東北帝国大学から理学博士号(日本で女性として2番目)を授与され、1936年(昭和11)には、第1回真島賞 (日本化学会) を受賞します。
大平洋戦争後の1949年(昭和24)に新設されたお茶の水女子大学にて、理学部化学科生物化学講座初代教授に就任しました。1952年(昭和27)にタマネギの色素研究から血圧降下剤を作り出すことに成功、お茶の水女子大学を退官し、名誉教授となり、翌年(昭和28)には、特許を得てケルチンCとして市販されます。
1958年(昭和33)に日本婦人科学者の会が発足し、会長に就任し、1959年(昭和34)には、紫綬褒章を受章しました。1965年(昭和40)には、勲三等宝冠章を受章したものの、1968年(昭和43)11月8日に、福岡県において、84歳で亡くなり、従三位を追叙されています。
尚、1999年(平成11)には、東北大学により、学業で成果や努力が認められた同大の女子大学院生に贈られる黒田チカ賞が創設されました。
1906年(明治39)に同校を卒業し、福井県師範学校女子部に職を得ましたが、翌年には、女子高等師範学校の研究科に入学し、1909年(明治39)に研究科を修了し、同校の助教授となりました。1913年(大正2)に、女子に門戸を開いた東北帝国大学理学部化学科に帝大初の女子研究生として入学し、真島利行に師事、有機化学を研究します。
1916年(大正5)に東北帝国大学理科大学化学科を卒業し、日本女性初の理学士となると副手の職を得て、翌年に財団法人理化学研究所が設立され、主任研究員のl人となりました。1918年(大正7)に天然色素の研究『紫根の色素について』を東京化学会(現在の日本化学会)で発表、1921年(大正10)には、英国オックスフォード大学へ国費留学します。
1923年(大正12)に2年間の在外研究を終えアメリカ経由で帰国、東京女子高等師範学校講師となり、理化学研究所の真島研究室で紅花の色素の構造研究を始めました。1929年(昭和4)に「紅花の色素カーサミンの構造決定」で、東北帝国大学から理学博士号(日本で女性として2番目)を授与され、1936年(昭和11)には、第1回真島賞 (日本化学会) を受賞します。
大平洋戦争後の1949年(昭和24)に新設されたお茶の水女子大学にて、理学部化学科生物化学講座初代教授に就任しました。1952年(昭和27)にタマネギの色素研究から血圧降下剤を作り出すことに成功、お茶の水女子大学を退官し、名誉教授となり、翌年(昭和28)には、特許を得てケルチンCとして市販されます。
1958年(昭和33)に日本婦人科学者の会が発足し、会長に就任し、1959年(昭和34)には、紫綬褒章を受章しました。1965年(昭和40)には、勲三等宝冠章を受章したものの、1968年(昭和43)11月8日に、福岡県において、84歳で亡くなり、従三位を追叙されています。
尚、1999年(平成11)には、東北大学により、学業で成果や努力が認められた同大の女子大学院生に贈られる黒田チカ賞が創設されました。
〇黒田チカ関係略年表
・1884年(明治17)3月24日 佐賀県佐賀郡松原町(現在の佐賀市松原)において、父・黒田平八、母・トクの7人兄弟姉妹の三女として生まれる
・1901年(明治34) 佐賀師範学校女子部(現在の佐賀大学文化教育学部)を卒業し、小学校教員の職に就く
・1902年(明治35) 上京して女子高等師範学校理科へ進む
・1906年(明治39) 女子高等師範学校を卒業し、福井県師範学校女子部に職を得る
・1907年(明治40) 女子高等師範学校の研究科に入学する
・1909年(明治39) 女子高等師範学校研究科を修了し、東京女子高等師範学校の助教授となる
・1913年(大正2) 女子に門戸を開いた東北帝国大学理学部化学科に帝大初の女子研究生として入学し、真島利行に師事、有機化学を研究する
・1916年(大正5) 東北帝国大学理科大学化学科を卒業し、日本女性初の理学士となると副手の職を得る
・1917年(大正6) 東京駒込に財団法人理化学研究所が設立され、主任研究員のl人となる
・1918年(大正7) 天然色素の研究『紫根の色素について』を東京化学会(現在の日本化学会)で発表する
・1921年(大正10) 英国オックスフォード大学へ国費留学する
・1923年(大正12) 2年間の在外研究を終えアメリカ経由で帰国、東京女子高等師範学校講師となり、理化学研究所の真島研究室で紅花の色素の構造研究を始める
・1929年(昭和4) 「紅花の色素カーサミンの構造決定」で、東北帝国大学から理学博士号(日本で女性として2番目)を授与される
・1936年(昭和11) 第1回真島賞 (日本化学会) を受賞する
・1949年(昭和24) 新設されたお茶の水女子大学にて、理学部化学科生物化学講座初代教授に就任する
・1952年(昭和27) タマネギの色素研究から血圧降下剤を作り出すことに成功、お茶の水女子大学を退官し、名誉教授となる
・1953年(昭和28) 特許を得てケルチンCとして市販される
・1958年(昭和33) 日本婦人科学者の会が発足し、会長に就任する
・1959年(昭和34) 紫綬褒章を受章する
・1964年(昭和39) 黒田を主人公とするNHKの子供向けドラマは「たまねぎおばさん」が放送される
・1965年(昭和40) 勲三等宝冠章を受章する
・1968年(昭和43)11月8日 福岡県において、84歳で亡くなり、従三位を追叙される
・1999年(平成11) 東北大学により、学業で成果や努力が認められた同大の女子大学院生に贈られる黒田チカ賞が創設される
・2013年(平成25) 日本化学会がその関連資料を化学遺産に認定する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
794年(延暦13) | 桓武天皇が山背国を山城国と改め、新京を「平安京」と称する詔を発布する(新暦12月4日) | 詳細 |
1629年(寛永6) | 幕府の「勅許の紫衣」の無視・反対(紫衣事件)等で、後水尾天皇が退位する(新暦12月22日) | 詳細 |
1892年(明治25) | 文芸評論家・推理小説家・翻訳家平林初之輔の誕生日 | 詳細 |
1894年(明治27) | 戯作者・新聞記者仮名垣魯文の命日 | 詳細 |
1895年(明治28) | ロシア・フランス・ドイツの勧告(三国干渉)により、清国との間で「奉天半島還付条約」に調印する | 詳細 |
1896年(明治29) | 神宮司庁蔵版『古事類苑』の刊行が開始される | 詳細 |
1933年(昭和8) | 東京の府中町に東京競馬場(東京競馬倶楽部運営)が開場する | 詳細 |
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