satoutaisei01
 今日は、平成時代の2004年(平成16)に、日本画家佐藤太清が亡くなった日です。
 佐藤太清(さとう たいせい)は、大正時代の1913年(大正2)11月10日に、京都府福知山市字岡ノ上において、天田郡役所に勤務していた父・佐藤平馬、母・まさの四男として生まれましたが、本名は實(みのる)と言いました。福知山惇明尋常高等小学校を経て、1931年(昭和6)に福知山実践商業学校を卒業し、上京します。
 東京外国語大学を中退後、1933年(昭和8)には、児玉希望塾に内弟子(~1936年)として入門し、雅号を「太清」としました。花鳥画と風景画を得意とし、1943年(昭和18)に「かすみ網」が、第6回新文展で初入選し、1947年(昭和22)には、「清韻」が、第3回日展で特選を受賞します。
 1952年(昭和27)の第8回日展で、「睡蓮」が特選、「罌粟」が朝倉賞を受賞、「雨の日」が第3回日月社展で奨励賞を受賞しました。1955年(昭和30)に武蔵野美術大学参与となり、1958年(昭和33)に1959年(昭和34) 第2回新日展の審査員をつとめ、「寂」を出品、1960年(昭和35)には、新日展会員となります。
 1965年(昭和40)に日展評議員に就任、日春会の委員となり、1966年(昭和41)に「風騒」で、第9回新日展文部大臣賞を受賞、翌年には、日本芸術院賞を受賞しました。1971年(昭和46)に日展理事、翌年に社団法人日本美術家連盟委員、1973年(昭和48)には、東京都美術館後援会理事に就任しています。
 1977年(昭和52)に日展理事、翌年には、東京国立美術展覧会会場建設委員、日本美術家連盟委員に就任しました。1980年(昭和55)に日本芸術院会員、1981年(昭和56)に日展常務理事、1983年(昭和58)には、日展事務局長に就任しています。
 1985年(昭和60)に勲三等瑞宝章を受章、日展理事長(~1987年)に就任、1988年(昭和63)には、文化功労者となり、日中文化交流協会常任理事に就任しました。1992年(平成4)に文化勲章を受章、翌年に福知山市名誉市民となりましたが、1995年(平成7)に腹部大動脈瘤の手術を受けています。
 繊細で写実的な表現方法で、叙情的な花鳥画や風景画を描き、日本画壇に新境地を開きましたが、2004年(平成16)11月6日に、東京都板橋区において、多器臓不全のため90歳で亡くなり、従三位を追叙され、平成16年度区民文化栄誉賞(板橋区文化振興財団)、区政功労表彰(板橋区)が贈られました。

<佐藤太清代表的な作品>

・「かすみ網」(1943年・板橋区立美術館蔵)第6回新文展初入選
・「清韻」(1947年・山種美術館蔵)第3回日展特選受賞
・「竹窗細雨」(1951年・埼玉県立近代美術館蔵)
・「睡蓮」(1952年)第8回日展特選受賞
・「樹」(1956年・佐久市立近代美術館蔵)
・「寂」(1959年・東京都現代美術館蔵)
・「風騒」(1966年・日本芸術院蔵)第9回新日展文部大臣賞・日本芸術院賞受賞
・「燄」(1967年・茨城県近代美術館蔵))
・「洪」(1968年・福知山市佐藤太清記念美術館蔵)
・「緑雨」(1970年・東京国立近代美術館蔵)
・「夢殿」(1972年・所蔵先非公開)
・「昏」(1974年、愛媛県立美術館蔵)
・「雨の天壇」(1979年・日本芸術院蔵)
・「東大寺暮雪」(1975年・広島県立美術館蔵)
・「旅の朝」(1980年・所蔵先非公開)
・「旅の夕暮」(1981年・愛知県美術館蔵)
・「最果の旅」(1983年・福知山市佐藤太清記念美術館蔵)
・「旅愁」(1986年・光記念館蔵)

〇佐藤太清関係略年表

・1913年(大正2)11月10日 京都府福知山市字岡ノ上において、天田郡役所に勤務していた父・佐藤平馬、母・まさの四男として生まれる
・1921年(大正10) 福知山惇明尋常高等小学校入学する
・1927年(昭和2) 福知山惇明尋常高等小学校を卒業し、福知山実践商業学校に入学する
・1931年(昭和6) 福知山実践商業学校を卒業し、上京する
・1933年(昭和8) 児玉希望塾に内弟子(~1936年)として入門する
・1943年(昭和18) 「かすみ網」が、第6回新文展で初入選する
・1945年(昭和20) 第1回現代美術展覧会(朝日新聞社主催)に「迎春」を招待出品する
・1947年(昭和22) 「清韻」が、第3回日展で特選を受賞する
・1948年(昭和23) 「幽韻」が、第4回日展無鑑査出品となる
・1951年(昭和26) 「朝顔」が、第4回美術協会展で佳作賞を受賞する
・1952年(昭和27) 第8回日展で、「睡蓮」が特選、「罌粟」が朝倉賞を受賞、「雨の日」が第3回日月社展で奨励賞を受賞する
・1953年(昭和28) 第4回日月社展の審査員をつとめ、「阿修羅」を出品する
・1955年(昭和30) 武蔵野美術大学参与となる
・1958年(昭和33) 「尾山幟・佐藤太清二人展」を東洋美術館画廊(東京都・銀座)で開催する
・1959年(昭和34) 第2回新日展の審査員をつとめ、「寂」を出品する
・1960年(昭和35) 新日展会員となる
・1962年(昭和37) 第5回新日展の審査員をつとめ、「冬日」を出品する
・1965年(昭和40) 日展評議員に就任、日春会の委員となる
・1966年(昭和41) 「風騒」で、第9回新日展文部大臣賞を受賞、第1回日春展審査員となり「尾瀬」を出品する
・1967年(昭和42) 前年に出品した「風騒」で、日本芸術院賞を受賞する
・1968年(昭和43) 第11回新日展の審査員をつとめ、「洪」を出品、外務省の委嘱により国連本部(米国・ニューヨーク)に納める「白鷺」を制作する
・1970年(昭和45) 日春展運営委員となり第5回展の審査をつとめる
・1971年(昭和46) 日展理事に就任、第3回日展の審査員をつとめ、「無」出品する
・1972年(昭和47) 外務省の委嘱により在中国日本国大使館(中国・北京)に「孔雀」(昭和36年日展出品)を納め、社団法人日本美術家連盟委員に就任する
・1973年(昭和48) 第5回日展の審査員をつとめ、「清韻」を出品、第8回日春展の審査員をつとめ、「水辺」を出品、東京都美術館後援会理事に就任する
・1975年(昭和50) 日展監事、日本美術家連盟委員に就任する
・1976年(昭和51) 第8回日春展の審査員をつとめ、「孟春」(たげり)を出品する
・1977年(昭和52) 日展理事に就任、第9回日展の審査員をつとめ、「蓮」を出品、第8回日春展の審査員をつとめ、「パンジー」を出品する
・1978年(昭和53) 第10回日展の審査員をつとめ、「朝霧」を出品、東京国立美術展覧会会場建設委員、日本美術家連盟委員に就任する
・1979年(昭和54) 現代日本絵画展開催に際し文化使節として中国を訪問する
・1980年(昭和55) 日本芸術院会員となる
・1981年(昭和56) 日展常務理事に就任、渡欧してフランス、イタリア、バチカン等を訪れる
・1982年(昭和57) メキシコのマヤ遺跡を訪れる
・1983年(昭和58) 日展事務局長に就任する
・1984年(昭和59) 「佐藤太清展」(読売新聞社主催)を松屋銀座、大阪大丸にて開催する
・1985年(昭和60) 勲三等瑞宝章を受章、日展理事長(~1987年)に就任する
・1987年(昭和62) 「現代作家デッサン・シリーズI 佐藤太清展」(朝日新聞社主催)を松屋銀座(東京都・銀座)で開催する
・1988年(昭和63) 文化功労者となり、日中文化交流協会常任理事に就任する
・1992年(平成4) 文化勲章を受章する
・1993年(平成5) 福知山市名誉市民となり、福知山市美術館にて、「文化勲章記念 佐藤太清展」開催する
・1995年(平成7) 腹部大動脈瘤の手術を受ける
・1996年(平成8) 若い世代への美術奨励のために板橋区に「佐藤青少年美術奨励基金」が創設される
・2004年(平成16)11月6日 東京都板橋区において、多器臓不全のため90歳で亡くなり、従三位を追叙され、平成16年度区民文化栄誉賞(板橋区文化振興財団)、区政功労表彰(板橋区)が贈られる。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1717年(享保2)地理学者・儒学者長久保赤水の誕生日(新暦12月8日)詳細
1906年(明治39)考古学者で「騎馬民族説」を唱えた江上波夫の誕生日詳細
1937年(昭和12)「日独伊防共協定」が調印される詳細
1938年(昭和13)北海道の北炭夕張炭鉱(天竜坑)で爆発事故が起こり、死者161人、負傷者21人を出す詳細
1943年(昭和18)大東亜会議において「大東亜共同宣言」が出される詳細
1945年(昭和20)GHQが「持株会社の解体に関する覚書」により、四大財閥の解体を指令する詳細
1975年(昭和50)俳人・随筆家・小説家・編集者石川桂郎の命日(桂郎忌)詳細