
「ロンドン海軍軍縮条約」(ろんどんかいぐんぐんしゅくじょうやく)は、1930年(昭和5)1月21日から開始され、イギリス・アメリカ・日本・フランス・イタリアの参加したロンドン海軍軍縮会議において、最終日の4月22日に締結された多国間協定(有効期間6年)で、正式には、「海軍兵器の制限と削減のための国際条約」と言います。交渉が難航しましたが、「ワシントン海軍軍縮条約」で規定された主力艦建造休止期限を5年延長すること、イギリス・アメリカ・日本の補助艦保有比率を100:100:69.75とすることなどが決められました。
これに対して、国内では、統帥権の干犯である、国防の危機を招くなどとして反対する声が上がりましたが、条約上の兵力量の決定は政府が行うものと考えていた浜口雄幸内閣はこれを抑え、10月1日の枢密院本会議で承認され、翌2日には、昭和天皇の裁可を得て、批准しています。これに関連して、11月14日に浜口雄幸首相が、東京駅で暴漢に狙撃されて重傷を負う事件(浜口首相狙撃事件)が引き起こされました。
その後、1936年(昭和11)1月15日に、日本が脱退を通告し、12月31日には、「ロンドン海軍軍縮条約」と「ワシントン海軍軍縮条約」が失効しています。
以下に、「海軍兵器の制限と削減のための国際条約(ロンドン海軍軍縮条約)」(抄)を掲載しておきますので、ご参照下さい。
これに対して、国内では、統帥権の干犯である、国防の危機を招くなどとして反対する声が上がりましたが、条約上の兵力量の決定は政府が行うものと考えていた浜口雄幸内閣はこれを抑え、10月1日の枢密院本会議で承認され、翌2日には、昭和天皇の裁可を得て、批准しています。これに関連して、11月14日に浜口雄幸首相が、東京駅で暴漢に狙撃されて重傷を負う事件(浜口首相狙撃事件)が引き起こされました。
その後、1936年(昭和11)1月15日に、日本が脱退を通告し、12月31日には、「ロンドン海軍軍縮条約」と「ワシントン海軍軍縮条約」が失効しています。
以下に、「海軍兵器の制限と削減のための国際条約(ロンドン海軍軍縮条約)」(抄)を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「海軍兵器の制限と削減のための国際条約(ロンドン海軍軍縮条約)」(抄) 1930年4月22日調印、10月2日日本が批准
一九三〇年(昭和五年)四月二二日署名調印
同年一〇月二日批准
同年同月二七日批准書寄託
同年一二月三一日実施
一九三一年(昭和六年)一月一日公布
亜米利加合衆国大統領、仏蘭西共和国大統領、「グレート、ブリテン」「アイルランド」及「グレート、ブリテン」海外領土皇帝印度皇帝陛下、伊太利国皇帝陛下並ニ日本国皇帝陛下ハ
競争的軍備ニ常ニ伴フ危険ヲ防止シ且負担ヲ軽減センコトヲ希望シ並ニ
「ワシントン」海軍会議ニ依リ開始セラレタル事業ヲ進展セシメ且軍備ノ一般的ノ制限及縮少ノ漸進的実現ヲ容易ナラシメンコトヲ希望シ
海軍軍備ノ制限及縮少ニ関スル条約ヲ締結スルコトニ決シ依テ左ノ如ク其ノ全権委員ヲ任命セリ(全県委員氏名省略)
右各全権委員ハ互ニ其ノ全権委任状ヲ示シ之カ良好妥当ナルヲ認メタル後左ノ如ク協定セリ
第一編
第一条 締約国ハ千九百二十二年二月六日「ワシントン」ニ於テ相互ノ間ニ署名セラレ且本条約ニ於テ「ワシントン」条約ト称セラルル海軍軍備制限ニ関スル条約ノ第二章第三節ニ規定セラルル主力艦代換トン数ノ龍骨据附ノ自国ノ権利ヲ千九百三十一年乃至千九百三十六年ノ期間中行使セサルコトヲ約ス
右規定ハ不慮ノ事変ニ依リ亡失シ又ハ破壞セラレタル艦船ノ代換ニ関スル前記条約第二章第三節第一款(ハ)ニ揭ケラルル規定ノ適用ヲ妨クルコトナシ
尤モ仏蘭西国及伊太利国ハ前記条約ノ規定ニ依リ千九百二十七年及千九百二十九年ニ自国カ起工スルノ権利ヲ与ヘラレタル代換トン数ヲ建造スルコトヲ得
第二条 合衆国、「グレート、ブリテン」及北部「アイルランド」連合王国並ニ日本国ハ左ノ主力艦ヲ本条ニ規定セラルル所ニ従ヒ処分スヘシ
合衆国
「フロリダ」「ユター」「アーカンソー」又ハ「ワイオーミング」
連合王国
「ベンボー」「アイアン、デューク」「マーバラ」「タイガー」「エンペラー、オブ、インディア」
日本国
比叡
(以下略)
第四条 口径六・一インチ(百五十五ミリメートル)ヲ超ユル砲ヲ搭載スル基準排水量一万トン(一万百六十メートル式トン)又ハ之ニ逹セサル航空母艦ハ何レノ締約国モ之ヲ取得シ又ハ之ヲ建造シ若ハ建造セシムルコトヲ得ス
一切ノ締約国ニ付本条約ノ実施セラルル時ヨリ口径六・一インチ(百五十五ミリメートル)ヲ超ユル砲ヲ搭載スル規準排水量一万トン(一万百六十メートル式トン)又ハ之ニ逹セサル航空母艦ハ何レノ締約国ノ法域內ニ於テモ建造セラレサルヘシ
(中略)
第二十三条 左ノ例外ヲ留保シ本条約ハ千九百三十六年十二月三十一日至ル迄引続キ效力ヲ有スベシ
(一) 第四編ハ無期限ニ引続キ効力ヲ有スベシ
(二) 第三条、第四条及第五条ノ規定並ニ航空母艦ニ関スル限リ第十一条及第二編第二附属書ノ規定ハ「ワシントン」条約ト同一ノ期間内引続キ効力ヲ有スベシ
締約国ハ其ノ全部ガ締約国ト為ルベキ一層一般的ナル海軍軍備制限協定ニ依リ別段ノ取極ヲ為サザル限リ本条約ニ代リ且本条約ノ目的ヲ遂行スル新条約ヲ作成スル為千九百三十五年ニ会議ヲ開催スヘシ但シ本条約ノ何レノ規定モ右会議ニ於ケル何レノ締約国ノ態度ヲモ妨グルコトナカルベキモノトス
外務省編「日本外交年表竝主要文書」下巻より
※旧字を新字に直してあります。
☆ロンドン海軍軍縮会議(ろんどんかいぐんぐんしゅくかいぎ)とは?
昭和時代前期の1930年(昭和5)1月21日~4月22日に、イギリス、日本、アメリカ、フランス、イタリアの五カ国が参加して、イギリスのロンドンで開催された海軍軍備制限のための会議でした。ワシントン海軍軍縮会議(1922年)、およびジュネーブ海軍軍縮会議(1927年)で合意に失敗した補助艦艇の制限を主要議題としたものの、フランスとイタリアは自国の主張が認められなかったため折り合わず、結局、アメリカ、イギリス、日本の三カ国のみが「ロンドン海軍軍備制限・縮小条約」(有効期間6年)に調印するに至ります。
その内容は、①主力艦の代艦建造は5年間延期、②英米日保有トン数15:15:9と改正、③8インチ砲巡洋艦米日の比率10:6.02、補助艦総トン数10:6.97、④潜水艦は日米ともに5万2700トンというものとなりました。日本では、海軍強硬派は、この条約は不平等で、統帥権干氾であると攻撃したものの、反対を押し切って、浜口雄幸首相、幣原喜重郎外相のもとで10月2日に条約批准にこぎつけましたが、同年11月14日に浜口首相が、東京駅で暴漢に狙撃されて重傷を負う事件(浜口首相狙撃事件)が引き起こされます。
同条約は、第23条で、1935年(昭和10)に新たな海軍軍縮会議の開催を予定していたため、1934年(昭和9)10月に、アメリカ、イギリス、日本はその予備会議を開いたものの話し合いがつかず、条約所定のとおり1935年(昭和10)12月、アメリカ、イギリス、日本の三カ国による第2回ロンドン海軍軍縮会議が開催されましたが、冒頭から海軍力均等を要求して、米英の反対を受けた日本が、建艦通報に関するイギリス案を不満として、1936年(昭和11)1月15日に、会議から脱退しました。これによって、軍縮時代は終わりをつげ、再び建艦競争が繰り広げられることになります。
☆ロンドン海軍軍縮会議関係略年表
<1930年(昭和5)>
・1月21日 イギリス、日本、アメリカ、フランス、イタリアの五ケ国が参加してロンドン海軍軍縮会議が始まる
・4月22日 アメリカ、イギリス、日本の三ヶ国のみが「ロンドン海軍軍縮条約」(有効期間6年)に調印し、ロンドン海軍軍縮会議が終わる
・10月1日 日本の枢密院本会議は、満場一致で条約を可決する
・10月2日 正式に条約が批准される
・11月14日 浜口首相が、東京駅で暴漢に狙撃されて重傷を負う事件(浜口首相狙撃事件)が引き起こされる
<1931年(昭和6)>
・1月1日 「ロンドン海軍軍縮条約」が公布される
<1934年(昭和9)>
・10月 アメリカ、イギリス、日本による、第2回ロンドン海軍軍縮会議の予備会議が行われる。
<1935年(昭和10)>
・12月 アメリカ、イギリス、日本の三ヶ国による第2回ロンドン海軍軍縮会議が始まる
<1936年(昭和11)>
・1月15日 日本がロンドン海軍軍縮会議よりの脱退を通告する
・12月31日 「ロンドン海軍軍縮条約」と「ワシントン海軍軍縮条約」が失効する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1554年(天文23) | 禅僧・連歌師・俳人山崎宗鑑の命日(新暦10月28日) | 詳細 |
1855年(安政2) | 安政江戸地震が起き、江戸を中心に甚大な被害が出る(新暦11月11日) | 詳細 |
1872年(明治5) | 「芸娼妓解放令」を発布し、遊女の人身売買を禁止、芸娼妓等の年季奉公人を解放する(新暦11月2日) | 詳細 |
1900年(明治33) | 「娼妓取締規則」(明治33年内務省令第44号)が公布される | 詳細 |
1932年(昭和7) | 国際連盟現地調査団が満州事変や満州国について「リットン報告書」を発表する | 詳細 |
1943年(昭和18) | 勅令「在学徴集延期臨時特例」公布で、理工科系以外の学生の徴兵猶予を撤廃する | 詳細 |
1985年(昭和60) | 関越トンネルの開通により、関越自動車道(練馬~長岡)がつながる | 詳細 |
コメント