
『七人の侍』(しちにんのさむらい)は、監督:黒澤明、脚本:黒澤明・橋本忍・小国英雄、撮影:中井朝一による日本の時代劇映画で、モノクロ、スタンダードサイズ(207分)でした。出演は、志村喬、稲葉義男、宮口精二、千秋実、加東大介、木村功、三船敏郎ほかで、戦国時代に野盗に悩まされる貧しい農民たちが自衛のために7人の侍を雇い、野武士の襲撃から村を守って勝利するまでを描いた大型時代活劇です。
複数のカメラを駆使(マルチカメラシステム)し、望遠レンズを多用して、ダイナミックな編集によって迫力を盛り上げた戦闘場面が秀逸で、海外での評価も高く、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞、ユッシ賞外国監督賞(黒澤明)・外国男優賞(志村喬)、第9回毎日映画コンクール男優助演賞(宮口精二)などを受賞しました。その後、ジョン・スタージェス監督の西部劇『荒野の七人』(1960年)、ジミー・T・ムラカミ監督の『宇宙の七人』(1980年)など、この映画を手本とした作品が多く作られています。また、2018年にBBCが発表した「史上最高の外国語映画ベスト100」では1位に選ばれました。
複数のカメラを駆使(マルチカメラシステム)し、望遠レンズを多用して、ダイナミックな編集によって迫力を盛り上げた戦闘場面が秀逸で、海外での評価も高く、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞、ユッシ賞外国監督賞(黒澤明)・外国男優賞(志村喬)、第9回毎日映画コンクール男優助演賞(宮口精二)などを受賞しました。その後、ジョン・スタージェス監督の西部劇『荒野の七人』(1960年)、ジミー・T・ムラカミ監督の『宇宙の七人』(1980年)など、この映画を手本とした作品が多く作られています。また、2018年にBBCが発表した「史上最高の外国語映画ベスト100」では1位に選ばれました。
〇映画『七人の侍』の受賞一覧
・ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞
・キネマ旬報ベスト・テンで日本映画ベスト・テン3位
・第9回毎日映画コンクール男優助演賞(宮口精二)
・ブルーリボン賞音楽賞(早坂文雄)
・都民映画コンクール銀賞
・日本映画技術賞撮影(中井朝一)
・日本映画技術賞美術(松山崇)
・ユッシ賞外国監督賞(黒澤明)
・ユッシ賞外国外国男優賞(志村喬)
☆黒澤明(くろさわ あきら)とは?
昭和時代から平成時代に活躍した日本を代表する映画監督・脚本家です。明治時代後期の1910年(明治43)3月23日に、東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区東大井)で、荏原中学校(現在の日体荏原高等学校)に勤めていた父・黒澤勇と母・シマの4男4女の末っ子として生まれました。
1927年(昭和2)に京華中学校卒業後、画家になることを志し、川端画学校に通って洋画を勉強、1928年(昭和3)には二科展に「静物」が入選します。同年、造形美術研究所(のちのプロレタリア美術研究所)に入り、1929年(昭和4)には、日本プロレタリア美術家同盟に参加し、同年の第2回プロレタリア美術大展覧会に5つの作品を出品しました。
1936年(昭和11)、画業に見切りをつけ、P.C.L.映画製作所(後に東宝と合併)に入社、山本嘉次郎に師事し、1938年(昭和13)に助監督となります。1943年(昭和18)に『姿三四郎』で監督デビューし、太平洋戦争中には他に『一番美しく』(1944)など3本を監督しました。
戦後は、戦中・戦後の青年像を鮮烈に描いた『わが青春に悔なし』(1946年)、『素晴らしき日曜日』(1947年)、『酔いどれ天使』(1948年)、『野良犬』(1949年)などを監督して、日本映画の旗手となります。1950年(昭和25)の『羅生門』では、ベネチア国際映画祭グランプリを獲得、続いて『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)などを発表し、ダイナミックな映像表現と一貫したヒューマニズムの追求により、世界から高い評価を得ました。
1980年(昭和55)の『影武者』でカンヌ国際映画祭のグランプリ、1984年(昭和59)にフランスよりレジオン・ドヌール勲章、翌年映画人として初の文化勲章など数々の栄誉に輝きます。1990年(平成)には、アカデミー賞名誉賞も受賞しましたが、1998年(平成10)9月6日に、東京において、88歳で亡くなりました。没後、映画監督としては初の国民栄誉賞も受賞しています。
1927年(昭和2)に京華中学校卒業後、画家になることを志し、川端画学校に通って洋画を勉強、1928年(昭和3)には二科展に「静物」が入選します。同年、造形美術研究所(のちのプロレタリア美術研究所)に入り、1929年(昭和4)には、日本プロレタリア美術家同盟に参加し、同年の第2回プロレタリア美術大展覧会に5つの作品を出品しました。
1936年(昭和11)、画業に見切りをつけ、P.C.L.映画製作所(後に東宝と合併)に入社、山本嘉次郎に師事し、1938年(昭和13)に助監督となります。1943年(昭和18)に『姿三四郎』で監督デビューし、太平洋戦争中には他に『一番美しく』(1944)など3本を監督しました。
戦後は、戦中・戦後の青年像を鮮烈に描いた『わが青春に悔なし』(1946年)、『素晴らしき日曜日』(1947年)、『酔いどれ天使』(1948年)、『野良犬』(1949年)などを監督して、日本映画の旗手となります。1950年(昭和25)の『羅生門』では、ベネチア国際映画祭グランプリを獲得、続いて『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)などを発表し、ダイナミックな映像表現と一貫したヒューマニズムの追求により、世界から高い評価を得ました。
1980年(昭和55)の『影武者』でカンヌ国際映画祭のグランプリ、1984年(昭和59)にフランスよりレジオン・ドヌール勲章、翌年映画人として初の文化勲章など数々の栄誉に輝きます。1990年(平成)には、アカデミー賞名誉賞も受賞しましたが、1998年(平成10)9月6日に、東京において、88歳で亡くなりました。没後、映画監督としては初の国民栄誉賞も受賞しています。
<監督映画作品一覧>
・『姿三四郎』(1943年)
・『一番美しく』(1944年)
・『続姿三四郎』(1945年)
・『虎の尾を踏む男達』(1945年)
・『明日を創る人々』(1946年)[山本嘉次郎、関川秀雄との共同監督]
・『わが青春に悔なし』(1946年)
・『素晴らしき日曜日』(1947年)
・『酔いどれ天使』(1948年)
・『静かなる決闘』(1949年)
・『野良犬』(1949年)
・『醜聞(スキャンダル)』(1950年)
・『羅生門』(1950年)
・『白痴』(1951年)
・『生きる』(1952年)
・『七人の侍』(1954年)
・『生きものの記録』(1955年)
・『蜘蛛巣城』(1957年)
・『どん底』(1957年)
・『隠し砦の三悪人』(1958年)
・『悪い奴ほどよく眠る』(1960年)
・『用心棒』(1961年)
・『椿三十郎』(1962年)
・『天国と地獄』(1963年)
・『赤ひげ』(1965年)
・『どですかでん』(1970年)
・『デルス・ウザーラ』(1975年)
・『影武者』(1980年)
・『乱』(1985年)
・『夢』(1990年)
・『八月の狂詩曲(ラプソディー)』(1991年)
・『まあだだよ』(1993年)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1797年(寛政9) | 浮世絵師歌川広重の命日(新暦10月12日) | 詳細 |
1919年(大正8) | 「帝国美術院規程」(大正8年勅令第417号)によって、帝国美術院が創設される | 詳細 |
1938年(昭和13) | 氷見町大火が起こり、死者5名、負傷者510名、焼失家屋1,543棟を出す | 詳細 |
1941年(昭和16) | 御前会議で「帝国国策遂行要領」を決定する | 詳細 |
1945年(昭和20) | トルーマン米大統領が「降伏後における米国の初期対日方針」を承認し、マッカーサーに指令する | 詳細 |
1998年(平成10) | 映画監督・脚本家黒澤明の命日 | 詳細 |
2018年(平成30) | 北海道胆振東部地震(M6.7)が起こり、死者41人、負傷者675人が出る | 詳細 |
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