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 今日は、昭和時代後期の1967年(昭和42)に、四日市市の市民9人が四日市石油コンビナートの企業各社に慰藉料を請求する民事訴訟(四日市公害訴訟)を起こした日です。
 四日市公害訴訟(よっかいちこうがいそしょう)は、大気汚染により引き起こされた健康被害に対して公害病認定患者が、四日市石油コンビナート6社を相手どって損害賠償、慰謝料などを請求した訴訟です。昭和時代中期の1960年(昭和35)に四日市市塩浜にコンビナートが建設されると、翌年夏から開業医の中山医院に、「咳が出る」「のどがおかしい」「激しいぜんそく発作が出る」などの症状(四日市喘息)を訴えて駆け込む患者が急増しました。
 1964年(昭和39)に東海労働弁護団への相談を契機に、裁判提訴の動きが出ますが、翌年には、磯津地区を中心に塩浜地区、港地区などコンビナート周辺で硫黄酸化物など大気汚染物質により、激しい咳や呼吸困難など呼吸器系の疾患の被害が続出するようになります。1965年(昭和40)に、“公害病認定制度”が発足したものの、1966年(昭和41)には、公害ぜんそくを苦に、首つり自殺するという痛ましい犠牲者が出ました。
 そこで、1967年(昭和42)9月1日に、県立塩浜病院入院中の磯津の公害患者9名が原告として第1コンビナート企業6社を相手に裁判を起こします。その後、審理が続き、1972年(昭和47)7月24日には、津地方裁判所四日市支部が原告勝訴の判決を出しましたが、原告らの喘息等の疾病と大気汚染との因果関係を肯定し、各工場の大気汚染源の排出と疾病との因果関係については民法第719条1項の共同不法行為の規定を適用してこれを肯定し、さらに被告らの過失をも肯定して、結局被告6社全部に連帯して合計8,800万円余りの損害賠償を支払うよう命じたものでした。
 その後、被告である企業は控訴を断念したことにより、判決が確定します。この判決により、被告の共同不法行為を認めたことは、集合公害救済への道を開くものとなり、国に「公害健康被害補償法」を制定させる契機となるなど、その後の公害被害者の救済面に大きな影響を及ぼしました。

〇四日市公害訴訟関係略年表

・1960年(昭和35) 四日市市塩浜にコンビナートが建設される
・1961年(昭和36)夏 開業医の中山医院に、「咳が出る」「のどがおかしい」「激しいぜんそく発作が出る」などの症状(四日市喘息)を訴えて駆け込む患者が急増する
・1964年(昭和39) 東海労働弁護団への相談を契機に、裁判提訴の動きが出る
・1965年(昭和40)頃 磯津地区を中心に塩浜地区、港地区などコンビナート周辺で硫黄酸化物など大気汚染物質により、激しい咳や呼吸困難など呼吸器系の疾患の被害が続出する
・1965年(昭和40)5月 “公害病認定制度”が発足する
・1966年(昭和41) 公害ぜんそくを苦に、首つり自殺するという痛ましい犠牲者が出る
・1967年(昭和42)9月1日 県立塩浜病院入院中の磯津の公害患者9名が原告として第1コンビナート企業6社を相手に裁判を起こす
・1972年(昭和47)7月24日 四日市公害訴訟で津地方裁判所四日市支部が原告勝訴の判決を出し、被告である企業は控訴を断念する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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