高倉天皇(たかくらてんのう)は、起用とにおいて、第77代とされる後白河天皇の第7皇子(母は皇太后平滋子建)として生まれましたが、名は憲仁(のりひと)と言いました。1163年(応保3)に、3歳で清盛の娘で関白基実の妻盛子の猶子となり、1166年(仁安元)に6歳で立太子します。
1168年(仁安3年2月19日)には、六条天皇の譲位を受けて8歳で即位して、第80代とされる天皇となりましたが、政務は父の後白河院が院政を敷きました。1172年(承安2)に、平清盛の娘徳子(のちの建礼門院)を中宮に迎え、1178年(治承2)には、中宮徳子に皇子(のちの安徳天皇)が誕生し、生後間もなく皇太子とさせられます。
1179年(治承3年11月)に平清盛がクーデタを起こし、後白河法皇を幽閉し院政をとどめ、軍事政権を敷くと翌年2月21日には、言仁親王(安徳天皇)に譲位して太上天皇となり、院政を開始しましたが、実権は平氏にありました。最初の社参を安芸の厳島神社に行なったものの、京都近辺の寺院勢力の反発を招き、反平氏連合をもたらして、以仁王の挙兵と諸国の源氏の蜂起をよび、源平争乱のきっかけとなります。
同年6月の福原遷都へも同行しましたが、病に倒れ、1181年(治承5年1月14日)に、京都において、数え年21歳の若さで亡くなりました。尚、詩歌管絃に優れ、和歌は「新古今和歌集」にも入集し、特に笛は堪能だったとされています。
<代表的な歌>
・「薄霧の 立ちまふ山の もみぢ葉は さやかならねど それとみえけり」(新古今和歌集)
・「音羽山 さやかにみする 白雪を 明けぬとつぐる 鳥のこゑかな」(新古今和歌集)
・「白露の 玉もて結る ませのうちに 光さえ添ふ とこなつの花」(新古今和歌集)
〇高倉天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・1161年(応保元年9月3日) 後白河天皇の第七皇子(母は建春門院滋子)として生まれる
・1163年(応保3年) 3歳で清盛の娘で関白基実の妻盛子の猶子となる
・1166年(仁安元年10月10日) 6歳で立太子する
・1168年(仁安3年2月19日) 六条天皇の譲位を受けて8歳で即位して、第80代とされる天皇となる
・1172年(承安2年) 平清盛の娘徳子(のちの建礼門院)を中宮に迎える
・1178年(治承2年11月12日) 中宮・徳子に皇子(のちの安徳天皇)が誕生する
・1178年(治承2年12月15日) 生後間もない皇子(のちの安徳天皇)を皇太子とする
・1179年(治承3年11月) 平清盛がクーデタを起こし、後白河法皇を幽閉し院政をとどめ、軍事政権を敷く
・1180年(治承4年2月21日) 言仁親王(安徳天皇)に譲位して太上天皇となり、院政を開始する
・1180年(治承4年) 最初の社参を安芸の厳島神社に行う
・1180年(治承4年) 福原遷都へも同行する
・1181年(治承5年1月14日) 京都において、21歳で病没する