河村瑞賢(かわむら ずいけん)は、江戸時代前期の1618年(元和4年2月15日)に、伊勢国度会郡東宮村(現在の三重県度会郡南伊勢町)の貧農の家に生まれましたが、名は七兵衛(のち十右衛門)と言いました。赤貧のうちに幼少期を過ごし、13歳のとき江戸に出て車力等を業とし、元服して十右衛門と称するようになります。
機略に富んでいて、品川沿岸に漂流する盂蘭盆の瓜や茄子を拾って漬け物にし、それを売り歩いて資金を得たとされ、1657年(明暦3)の明暦の大火に際しては、木曾の材木を買い占めて巨富を築きました。
さらに、土建業を営み、両国橋の建設、浅草寺修築、千川上水工事に参画するなど、幕府や諸大名の工事を請け負います。海運、水利にも着目し、1670年(寛文10)に江戸幕府より奥州信夫郡の幕領米数万石を江戸に回漕するよう命ぜられ、翌年東回り航路 (奥州荒浜-江戸) を開発しました。
同年に土木家として幕府に召し出され御家人となり、1672年(寛文12)には、西回り航路 (出羽最上-下関-大坂) も開きます。さらに、1684年(貞享元)から淀川下流に安治川を開削するなど、近畿地方の治水工事を担当しました。
他にも、全国各地で治水・灌漑・鉱山採掘・築港・開墾などの事業を実施、それらの功により、1698年(元禄11)に旗本に列せられ、150俵を与えられます。しかし、翌年6月16日に江戸において、82歳で亡くなり、鎌倉の建長寺に葬られました。
〇河村瑞賢関係略年表(日付は旧暦です)
・1618年(元和4年2月15日) 伊勢国度会郡東宮村(現在の三重県度会郡南伊勢町)の貧農の家に生まれる
・1630年(寛永7)頃 13歳で江戸に出て車力等を業とする
・1657年(明暦3年) 江戸の明暦の大火に際し、木曾の材木を買い占めて巨富を得る
・1670年(寛文10年) 江戸幕府より奥州信夫郡の幕領米数万石を江戸に回漕するよう命ぜられる
・1671年(寛文11年) 東回り航路 (奥州荒浜-江戸) を開発する
・1671年(寛文11年) 土木家として幕府に召し出され御家人となる
・1672年(寛文12年) 西回り航路 (出羽最上-下関-大坂) も開発する
・1683年(天和3年) 幕命により稲葉正休らに伴われて大和川関係河川を視察する
・1684年(貞享元年) 淀川下流に安治川の開削に着手する
・1685年(貞享2年) 大和川修築工事にあたる
・1698年(元禄11年) 旗本に列せられ、150俵を与えられる
・1698年(元禄11年) 江戸幕府の命で、新地の開発を目的に、大坂三郷地続きの長堀川、道頓堀にはさまれた地を開発する
・1699年(元禄12年6月16日) 江戸において、82歳で亡くなり、鎌倉の建長寺に葬られる