最澄(さいちょう)は、奈良時代の767年(神護景雲元年8月18日)に、近江国坂本(現在の滋賀県大津市)の一帯を統治する豪族の父・三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として生まれましたが、幼名は広野と言いました。778年(宝亀9)、12歳のときに近江国分寺の行表を師として出家、780年(宝亀11)、14歳のときに得度し名を最澄と改めます。
785年(延暦4)、19歳のとき東大寺の戒壇で具足戒(小乗戒)を受け、比叡山に登り山林に入り、天台三大部を研修しました。801年(延暦20)に南都の大徳10人を招いて法華会を修し、翌年には自ら高雄山寺で天台法華一乗を説きます。
同年に桓武天皇から入唐の勅命を受け、804年(延暦23)に遣唐使の一員として、空海、橘逸勢らと共に入唐し、天台山で行満から天台の教えを受け、また禅法、大乗菩薩の戒法、密教を学びました。805年(延暦24)に帰国し、密教を伝えるために高雄山寺に灌頂壇を設け、翌年最澄の上表により、天台宗としての年分度者を許されます。
しかし旧仏教の反対は強く、晩年には、法相宗の徳一との間で教理論争(三乗一乗権実論争)をおこない、819年 (弘仁10) に比叡山に大乗戒壇建立を奏上したものの、南都六宗の反対で許されませんでした。
そして、822年(弘仁13)に、比叡山において、数え年56歳で亡くなりますが、没後7日目に大乗戒壇設立が勅許されます。尚、866年(貞観8)に、清和天皇より伝教大師(日本最初の大師号)の諡号が贈られました。
〇最澄の主要な著作
・『照権実鏡(しょうごんじっきょう)』
・『法華去惑(こわく)』
・『守護国界章(しゅごこっかいしょう)』(818年)
・『決権実論』
・『法華秀句(しゅうく)』
・『山家学生式(さんげがくしょうしき)』(818~819年)
・『顕戒論(けんかいろん)』
・『内証仏法血脈譜(ないしょうぶっぽうそうしょうけちみゃくふ)』
・『通六九証破比量文(つうろくきゅうしょうはひりょうもん)』