イメージ 1

 今日は、平安時代前期の811年(弘仁2)に、武将・征夷大将軍坂上田村麻呂の亡くなった日ですが、新暦では6月17日となります。
 坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、奈良時代の758年(天平宝字2年)に、阿知使主を祖先とした東漢氏の一族であった、左京大夫・坂上苅田麻呂の子(母は畝火浄永の娘とも)として生まれました。
 武術に秀で、780年(宝亀11)に近衛将監、785年(延暦4)に従五位下、787年(延暦6)に近衛少将となり、791年(延暦10)には征夷副使となり、793年(延暦12)に征夷大将軍大伴弟麻呂に従って東北へ向かいます。翌年蝦夷を討ち、796年(延暦15)に陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命され、鎮守将軍も兼任しました。
 797年(延暦16)に征夷大将軍に任命され、801年(延暦20)の第三次蝦夷征討に際しては節刀を受けて東北へ向い、4万の軍を率いて攻め、まず胆沢の地を攻略し、10月に平安京に凱旋して、節刀を返上します。802年(延暦21)に胆沢城を築くため、造陸奥国胆沢城使として陸奥国に派遣され、鎮守府を多賀城から移しました。さらに、803年(延暦22)にも造志波城使として、陸奥国に派遣され北進して、同年4月には、夷大墓公阿弖流為、盤具公母礼を500余人を率いて降伏させました。
 翌年には再び征夷大将軍に任命され、蝦夷地経略の多大な功績によって、805年(延暦24)には参議となって公卿に列します。その後、中納言を経て正三位大納言(右近衛大将)にまで至りましたが、この間の810年(弘仁元)に起きた薬子の変でも、美濃路を固め上皇軍の鎮圧に努めました。
 京都清水寺の草創にも関わりましたが、811年(弘仁2)に平安京粟田口の別荘において、数え年54歳で亡くなり、従二位を追贈されています。

〇坂上田村麻呂関係略年表(日付は旧暦です)

・758年(天平宝字2年) 左京大夫・坂上苅田麻呂の子として生まれる
・780年(宝亀11年) 近衛将監となる
・785年(延暦4年) 従五位下に叙せられる
・787年(延暦6年) 近衛少将となる
・791年(延暦10年) 征東副使に任命される
・793年(延暦12年) 東北へ向かって軍を進発させる
・794年(延暦13年) 征夷大将軍大伴弟麻呂に従って蝦夷を討つ
・795年(延暦14年) 従四位下に叙せられる
・796年(延暦15年1月25日) 陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命される
・796年(延暦15年10月27日) 鎮守将軍を兼任する
・797年(延暦16年11月5日) 征夷大将軍に任命される
・798年(延暦17年閏5月24日) 従四位上に叙せられる
・799年(延暦18年5月) 近衛権中将となる
・801年(延暦20年2月14日) 第三次蝦夷征討に際しては節刀を受けて東北へ向う
・801年(延暦20年10月28日) 平安京に凱旋して、節刀を返上する
・801年(延暦20年11月7日) 従三位に叙せられる
・801年(延暦20年12月) 近衛中将となる
・802年(延暦21年1月9日) 胆沢城を築くため、造陸奥国胆沢城使として陸奥国に派遣される
・803年(延暦22年3月6日) 造志波城使として、陸奥国に派遣される
・803年(延暦22年4月15日) 夷大墓公阿弖流為、盤具公母礼が500余人を率いて降伏する
・804年(延暦23年1月28日) 4度目の蝦夷征討が計画され、再び征夷大将軍に任命される
・805年(延暦24年) 参議となって公卿に列する
・806年(大同元年3月18日) 中納言となる 
・806年(大同元年3月21日) 中衛大将となる
・807年(大同2年4月12日) 右近衛大将となる
・807年(大同2年8月14日) 侍従も兼任する
・807年(大同2年11月16日) 兵部卿を兼任する
・809年(大同4年3月30日) 正三位に叙せられる
・810年(弘仁元) 平城上皇の平城遷都に擬し造宮使となる
・810年(弘仁元年9月6日) 薬子の変が起る
・810年(弘仁元年9月10日) 大納言に昇進する
・810年(弘仁元年9月12日) 美濃路を固め上皇軍の鎮圧に努める
・811年(弘仁2年5月23日) 平安京粟田口の別荘において、数え年54歳で亡くなる