北条時頼(ほうじょう ときより)は、鎌倉において、六波羅探題北方に任じられた父・北条時氏(鎌倉幕府3代執権・北条泰時の長男)の次男(母は安達景盛の娘)として生まれましたが、幼名は戒寿と言いました。1230年(寛喜2)に3歳で父が亡くなったため、祖父・北条泰時に養育されることになります。
1237年(嘉禎3)に11歳で元服して、五郎時頼を名乗り、左兵衛少尉に任官しました。1243年(寛元元)に左近将監従五位下となり、1246年(寛元4)には兄経時の病気隠退のあとを受け、第5代執権に就任します。その直後、同族名越光時らの陰謀を押えて一味を追放、翌年には、安達氏と協力して、光時と意を通じた三浦一族を挑発してこれを滅ぼしました(宝治合戦) 。
さらに、1252年(建長4)に第5代将軍藤原頼嗣を廃して宗尊親王を迎える(親王将軍の始まり)など、北条氏の権力確立に努めます。1249年(建長元)に相模守となり、引付衆を置き裁判の迅速公平を図るなど、幕政の刷新を図りました。
一方、1253年(建長5)には、13ヶ条の新制で撫民のことを定め農民の保護に努めるなど善政を敷いたとされています。また、禅宗にも深い関心を抱き、同年に宋僧蘭渓道隆を招いて、鎌倉に建長寺を建てました。
1256年(康元元)に病により、家督を6歳の時宗に譲り、最明寺で出家、法名を覚了房道崇としたものの、出家後も幕政に参与しています。その後、諸国を回り民政を視察したという伝説が生じましたが、1263年(弘長3年11月22日)に、鎌倉の最明寺北亭において、数え年37歳で亡くなりました。
〇北条時頼関係略年表(日付は旧暦です)
・1227年(安貞元年5月14日) 北条時氏(鎌倉幕府3代執権・北条泰時の長男)の次男(母は安達景盛の娘)として生まれる
・1230年(寛喜2年6月18日) 3歳で父が亡くなったため、祖父・北条泰時に養育されることになる
・1237年(嘉禎3年4月22日) 11歳で元服して、五郎時頼を名乗る
・1237年(嘉禎3年9月1日) 左兵衛少尉に任官する
・1241年(仁治2年7月) 祖父泰時の健康を祈願するべく、兄の経時と共に鶴岡八幡宮にて百度詣を行う
・1243年(寛元元年閏7月27日) 従五位下に叙し、左近衛将監となる
・1244年(寛元2年3月6日) 従五位上に昇叙する
・1246年(寛元4年3月23日) 兄経時の病気隠退のあとを受け、第5代執権に就任する
・1246年(寛元4年5月) 同族名越光時らの陰謀を押えて一味を追放する
・1247年(寛元5年5月) 安達氏と協力して、名越光時と意を通じた三浦一族を挑発してこれを滅ぼす(宝治合戦)
・1247年(寛元5年7月) 前将軍・藤原頼経を京都に強制送還する(宮騒動)
・1247年(寛元5年12月) 京都大番役の勤務期間を6ヶ月から3ヶ月に短縮する
・1249年(建長元) 相模守となり、引付衆を置き裁判の迅速公平を図るなど、幕政の刷新を図る
・1251年(建長3年6月27日) 正五位下に昇叙する
・1252年(建長4) 第5代将軍藤原頼嗣を廃して、宗尊親王を迎える(親王将軍の始まり)
・1253年(建長5) 13ヶ条の新制で撫民のことを定め農民の保護に努める
・1253年(建長5) 宋僧蘭渓道隆を招いて建長寺を建てる
・1256年(康元元年11月22日) 病により、家督を6歳の時宗に譲り、最明寺で出家、法名を覚了房道崇とする
・1263年(弘長3年11月22日) 鎌倉の最明寺北亭において、数え年37歳で亡くなる