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 今日は、江戸時代後期の1829年(文政12)に、江戸時代の大名・老中松平定信の亡くなった日ですが、新暦では6月14日となります。
 松平定信(まつだいら さだのぶ)は、1759年1月15日(宝暦8年12月27日)に、江戸において、御三卿の田安徳川家の初代当主だった父・田安宗武(むねたけ)の7男(母は香詮院殿)として生まれましたが、幼名は賢丸といいました。(第8代将軍徳川吉宗の孫にあたる)
 1774年(安永3)白河藩主松平定邦の養子となり、翌年世継、1783年(天明3)には家督を継いで白河11万石の藩主となって、従四位下、越中守に叙任されます。天明の大飢饉に際し、上方から食糧を緊急輸送してこれを救済し、倹約令を出して藩の財政支出を抑制、家臣の学問・武芸を奨励するとともに、農民には間引きを禁じて農村人口の増加を図って殖産政策を推進しました。これらによって、藩財政を建て直し、名君と称されるようになります。
 田沼意次失脚後の1787年(天明7)に、徳川御三家の推挙を受けて、第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座、侍従兼任となり、翌年には将軍輔佐ともなりました。幕政の建て直しをはかり、いわゆる「寛政の改革」を断行し、「旧里帰農奨励令」、「札差棄捐(きえん)令」、「風俗匡正(きょうせい)令」、「物価引下令」、「人足寄場(よせば)設置令」、「寛政異学の禁」などを実施します。
 しかし、はじめは期待された改革もうまく機能せず、家斉と対立するなど多くの反対にあい、1793年 (寛政5) に老中を辞しました。庶民にも「白河の、清きに魚もすみかねて、元のにごりの、田沼こいしき」などと揶揄されています。
 その後は、白河藩の藩政に専念し、藩校立教館の拡充や江戸湾防備のため、房総沿岸に台場を築造したりしたものの、1812年(文化9)に嫡子定永(さだなが)に封地を譲って隠居し、楽翁と号しました。晩年は江戸築地の下屋敷浴恩園に住んで風雅な生活を送りますが、朱子学ほかの学問に通じ、『花月草紙』、『楽亭筆記』、歌集『三草集』、『集古十種』、『古画図考』、自叙伝『宇下人言(うげのひとこと)』などを著します。
 その中で、1829年(文政12年5月13日)に、江戸において、数え年72歳で亡くなりました。

〇松平定信の主要な著作

・『国本論』(1781年)
・『花月草紙』
・『楽亭筆記』
・歌集『三草(みくさ)集』
・『集古十種』(1800年頃成立)
・『古画図考』
・自叙伝『宇下人言(うげのひとこと)』
・『修行録』(1822年)