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 今日は、平安時代後期の1183年(寿永2)5月11日に、倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲軍が平家軍を破った日ですが、新暦では6月2日となります。
 倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)は源平合戦の一つで、源(木曽)義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で、倶利伽羅峠(石川県津幡町・富山県小矢部市)一帯を戦場とした戦いですが、礪波山(となみやま)の戦いとも呼ばれてきました。
 この攻撃で義仲軍が夜襲を仕掛け、数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放つという奇策を行ったといわれ、平家軍は、将兵が次々に谷底に転落して壊滅し、平維盛は命からがら京へ逃げ帰ります。
 周辺には、平維盛の本陣が置かれた猿ヶ馬場や倶利伽羅不動寺、五社権現、源平供養塔などが残されてきました。

〇源平合戦とは?

 平安時代後期、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、日本各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最後には平氏政権の崩壊により、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いが、「源平合戦」(治承・寿永の乱)と呼ばれていました。有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。

〇源平合戦関係略年表

<保元元年(1156年)>
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される

<平治元年(1159年)>
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原で戦うが敗北する
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される

<永暦元年(1160年)>
・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される

<仁安2年(1167年)>
・2月 平清盛が太政大臣に就任する

<嘉応2年(1170年)>
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される

<承安2年(1172年)>
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる

<治承元年(1177年)>
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する

<治承3年(1179年)>
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる

<治承4年(1180年)>
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・6月22日 平家、福原遷都を強行する
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く

<養和元年(1181年)>
・閏2月4日 平清盛が病没する

<寿永2年(1183年)>
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲が平氏を破る
・7月28日 木曽義仲が、京都に入る
・10月14日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する

<寿永3年/元暦元年(1184年)>
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が木曽義仲を討つ
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する

<元暦2年/文治元年(1185年)>
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる
・11月28日 源頼朝が源義經追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)

<文治3年(1187年)>
・2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
・10月29日 藤原秀衡が病没する

<文治5年(1189年)>
・閏4月30日 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ
・7月17日 源頼朝が奥州に向けて出兵する
・8月22日 源頼朝軍に攻められて平泉が陥落する
・9月3日 藤原泰衡が殺害される
・9月18日 源頼朝が、奥州を平定する

☆『平家物語』より倶利伽羅峠の戦いの部分の抜粋

 倶利伽羅落(巻第七)

 さるほどに源平両方陣を合はす。陣のあはひ、僅か三町ばかりぞ寄せ合はせたる。源氏も進まず、平家も進まず。ややあつて源氏の方より、精兵を選つて、十五騎、楯の面に進ませ、十五騎が上矢の鏑を、ただ一度に平家の陣へぞ射入れたる。平家も十五騎を出だいて、十五の鏑を射返す。源氏三十騎を出だいて、三十の鏑を射さすれば、平家も三十騎を出だいて、三十の鏑を射返さす。源氏五十騎を出だせば、五十騎を出だし、百騎を出だせば、百騎を出だす。両方百騎づつ陣の面に進ませ、互ひに勝負をせんと逸りけるを、源氏の方より制して、わざと勝負をばせさせず。かやうにあひしらひ、日を待ち暮らし、夜に入つて、平家の大勢を、後ろの倶利迦羅谷へ追ひ落さんと謀りけるを、平家これをば夢にも知らず、共にあひしらひ、日を待ち暮らすこそはかなけれ。
 さるほどに北南より廻る搦手の勢一万余騎、倶利迦羅の堂の辺に廻り合ひ、箙の方立打ち叩き、鬨をどつとぞ作りける。各後ろを顧み給へば、白旗雲の如くに差し上げたり。「この山は四方巌石であんなれば、搦手よも廻らじとこそ思ひつるに、こはいかに」とぞ騒がれける。さるほどに大手より木曾殿一万余騎、鬨の声を合はせ給ふ。砥浪山の裾、松長の柳原、茱萸の木林に引き隠したりける一万余騎、日宮林に控へたる今井四郎が六千余騎も、同じう鬨の声をぞ合はせける。前後四万騎が喚く声、山も河も、ただ一度に崩るるとこそ聞えけれ。さるほどに次第に暗うはなる、前後より敵は攻め来たる。「汚しや、返せや返せや」と云ふ輩多かりけれども、大勢の傾き立ちたるは、左右なう取つて返す事の難ければ、平家の大勢後ろの倶利迦羅谷へ、我先にとぞ落ち行きける。先に落したる者の見えねば、「この谷の底にも道のあるにこそ」とて、親落せば子も落し、兄が落せば弟も続く、主落せば家子郎等も続きけり。馬には人、人には馬、落ち重なり落ち重なり、さばかり深き谷一つを、平家の勢七万余騎でぞ埋めたりける。巌泉血を流し、死骸丘を成せり。さればこの谷の辺には、矢の穴、刀の瑕残つて、今にありとぞ承る。平家の御方に宗と頼まれたりける上総大夫判官忠綱、飛騨大夫判官景高、河内判官秀国も、、この谷に埋もれて失せにけり。また備中国の住人、瀬尾太郎兼康は、聞ゆる兵にてありけれども、運や尽きにけん、加賀国の住人、蔵光次郎成澄が手にかかつて、生捕にこそせられけれ。また越前国火燧城にて返り忠したりける平泉寺の長吏斎明威儀師も、捕はれて出で来たる。木曾殿、「その法師はあまりに憎きに、まづ斬れ」とて斬らせらる。大将軍維盛通盛、稀有にして加賀国へ引き退く。七万余騎が中より、僅かに二千余騎こそ遁れたれ。
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   流布本『平家物語』 より