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 今日は、1602年(慶長7)に、連歌師里村紹巴の亡くなった日ですが、新暦では6月2日となります。
 里村紹巴(さとむら じょうは)は、戦国時代の1525年(大永5)に、奈良において生まれましたが、父は奈良一乗院の御小者(湯屋を業とも)だった松井昌祐とも言われてきました。
 12歳で父を失って興福寺明王院の喝食(寺院に入って雑用をつとめる少年)となり、そのころから連歌を学んだとされ、19歳のとき奈良にきた連歌師周桂(しゅうけい)に師事して上京、周桂没後は里村昌休(しょうきゅう)に師事したとされます。また、三条西公条(きんえだ)に和歌、物語を学び、昌休の没後は、遺児昌叱(しょうしつ)を養育、里村姓を名乗るようになりました。
 1564年(永禄7)、40歳のとき谷宗養が没して、連歌界の第一人者となり、近衛稙家、三好長慶、細川幽斎らと交友を深めます。織田信長・豊臣秀吉らとも交渉があり、1582年(天正10)の本能寺の変直前の明智光秀の「愛宕百韻」に参加したことで知られてきました。
 秀吉の毛利攻めの戦勝祈願「羽柴千句」も有名で、連歌論『連歌至宝抄』を秀吉に進上、多くの百韻、千句を残し、式目書・式目辞典・古典注釈書なども著します。しかし、1595年(文禄4)に豊臣秀次の事件に連座して、三井寺に蟄居させられ、のち許されますが、失意のうち、1602年(慶長7)に、数え年79歳で亡くなりました。
 尚、紹巴の子孫が里村本家(北家)、娘婿の里村昌叱の子孫が里村南家と呼ばれて、代々江戸幕府の御連歌師として仕えています。

〇里村紹巴の主要な著作

・連歌論書『連歌教訓』
・連歌論書『連歌至宝抄』
・紀行『富士見道記(みちのき)』
・古典注釈書『狭衣下紐(さごろもしたひも)』
・古典注釈書『源氏二十巻抄』
・古典注釈書『百人一首紹巴抄』
・式目去嫌書『式目秘抄』(1587年)
・連歌作法書『出葉 (てには) 口伝抄』(1591年)
・歌詞注釈書『匠材集』