一条兼良(いちじょう かねよし)は、1402年(応永9年5月7日)に、関白だった父・一条経嗣(つねつぐ)の子(母は東坊城秀長の娘)として生まれましたが、名は「かねら」とも呼ばれてきました。
1412年(応永19)に元服して正五位下に叙位、翌年従三位に叙せられて公卿に列し、翌々年に正三位・権中納言となり、1416年(応永23)に権大納言となって家督を継ぎます。その後も昇進を重ね、1429年(永享元)に従一位左大臣、1432年(永享4)には摂政へと昇りつめました。
しかし、実権は従兄弟の二条持基に握られ、一端辞任に追い込まれたものの、1444年(文安元)に、足利義政が室町幕府第8代将軍になると、1446年(文安3)に太政大臣、翌年には関白へと返り咲きました。
その後、1450年(宝徳2)に太政大臣を辞し、1453年(享徳2)に関白も辞任、同年准三宮に叙せられました。学者としての名声は高まり、将軍家の歌道などに参与、歴史・有職故実・文学等に通じ、当代随一の学者と言われるようになります。
1467年(応仁元)に関白に還補しましたが、同年に応仁の乱が勃発し、一条室町の邸宅と書庫「桃花坊文庫」を焼失、奈良興福寺大乗院門跡に疎開することになりました。ここでは講書、著作の生活を送ったものの、1470年(文明2)に再び関白を辞して、1473年(文明5)に美濃(現在の岐阜県)に下向し、奈良に戻ってまもなく大乗院で出家します。
1477年(文明9)に、応仁の乱が終息し、京都に戻って、第9代将軍足利義尚や生母日野富子の庇護をうけるようになりました。古典を研究し、源氏物語注釈書『花鳥余情』、『日本書紀纂疎』などを著し、有職故実や歌学書、紀行等多くの著作を残し、1481年(文明13年4月2日)に、京都において、数え年80歳で亡くなっています。
〇一条兼良の主要な著作
・『公事根源』
・教訓書『樵談治要(しょうだんちよう)』(1480年)
・『桃華蘂葉』
・『日本書紀纂疏(さんしょ)』(1472年頃)
・『伊勢物語愚見抄』
・『尺素往来』
・『花鳥余情(かちょうよせい)』(1472年)
・『源語秘訣』(花鳥余情の秘伝書)
・『源氏和秘抄』
・『源氏物語之内不審条々』
・『口伝抄』(源氏物語の注釈書)
・『源氏物語年立』
・『世諺問答』
・『梁塵愚案抄』(神楽歌と催馬楽の注釈書)
・『江家次第抄』
・『古今集童蒙抄』
・歌学書『歌林良材集』
・教訓書『文明一統記』
・『代始和抄』
・『世諺問答』
・『二判問答』
・歌学書『連珠合璧集』
・教訓書『小夜寝覚』
・紀行文『藤河の記』
・『桃華老人申楽後証記』
・『勧修念仏記』
・『多武峰縁起』