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 今日は、昭和時代前期の1929年(昭和4)に、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の創立大会が開かれた日です。
 日本プロレタリア作家同盟は、プロレタリア文学運動を推進した文学結社で、蔵原惟人を理論的指導者として、江馬修、片岡鉄兵、貴司山治、小林多喜二、宮本百合子、平林たい子、黒島伝治、細田民樹、細田源吉らが参加しました。
 1928年(昭和3)3月25日に、初代委員長を藤森成吉として、全日本無産者芸術連盟(ナップ)が結成された時、文学部、演劇部、美術部、音楽部、映画部、出版部の6専門部を設け、それらの領域でプロレタリア芸術運動を確立すべく活動しましたが、同年12月には、それぞれの部を独立させることとなります。そして、翌年2月10日に、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)として独立し、創立大会が開かれ、諸組織の協議体「全日本無産者芸術団体協議会」へ加入する形となりましたが、その中心組織でした。
 プロレタリアとしての階級的、政治的立場に立ち、その思想、感情、生活を表現しようとする文学を目指し、当局の激しい弾圧を受けながら、評論、実作など活発な創作活動を続け、全国的に組織を広げていきます。
 1931年(昭和6)に蔵原惟人は、新しい文化組織の結成を提案し、発展的に解消して日本プロレタリア文化連盟(コップ)として結実し、作家同盟はそのなかで新たに機関誌として『プロレタリア文学』を同年1月に創刊、また、『文学新聞』も発行し、全国の労働者や農民から作品の投稿を募って、優秀作品は『プロレタリア文学』掲載しました。
 しかし、1932年(昭和7)3月から4月にかけて、中野重治、蔵原惟人ら指導的メンバーの大量逮捕があり、激しい弾圧の中で、翌年2月20日に作家同盟書記長だった小林多喜二が、特高警察の手によって死に至らしめられるなどします。
 その中で、脱退する作家も出て来て、1934年(昭和9)2月、当時作家同盟の書記長だった鹿地亘は作家同盟の解散を決定し、2月22日付けで「ナルプ解体の声明」が発表されました。

〇プロレタリア文学とは?

 主として日本文学において、労働者階級の階級的、政治的立場に立ち、その思想、感情、生活の表現を目ざした文学およびその運動です。
 1921年(大正10)に小牧近江らによって創刊された雑誌『種蒔く人』の創刊を出発とするものの、1923年(大正12)の関東大震災を契機とした、激しい弾圧によって一時沈滞しました。
 翌年の『文芸戦線』創刊を契機に新たな高揚期を迎え、葉山嘉樹の『海に生くる人々』、『セメント樽の中の手紙』などの作品が登場します。その後、「プロレタリア文芸連盟」の文学運動として発展していき、1927年(昭和2)にこれが分裂し、「労農芸術家連盟」(労芸)が成立、さらに労芸が分裂して前衛芸術連盟(前芸)が成立、プロ芸、労芸、前芸の三派鼎立時代となりました。
 しかし、1928年(昭和3)にプロ芸と前芸の合同が実現して、「全日本無産者芸術連盟」(ナップ)が結成され、機関誌『戦旗』を創刊します。同年12月、ナップが「全日本無産者芸術団体協議会」に改組されることとなり、それを構成する団体の一つとして、1929年(昭和4)2月10日に「日本プロレタリア作家同盟」(ナルプ)が発足しました。
 その中で、小林多喜二の『一九二八年三月十五日』、『蟹工船』や徳永直の『太陽のない街』などの代表的作品が生み出されます。
 1931年(昭和6)に「日本プロレタリア文化連盟」(コップ)に改組されたりしましたが、当局の弾圧が強まる中で、脱退する作家も出て、1934年(昭和9)2月にナルプが解散し、同じころ労芸も活動停止状態となり、組織的なプロレタリア文学運動は終焉しました。

〇主要なプロレタリア作家・評論家と作品

・藤森成吉[1892~1977年]
 『磔茂左衛門』(1926年)
 『何が彼女をさうさせたか』(1927年)
 『渡辺崋山』(1935年)
・葉山嘉樹[1894~1945年]
 『淫売婦』(1924年)
 『セメント樽の中の手紙』(1926年)
 『海に生くる人々』(1926年)
・片岡鉄兵[1894~1944年]
 『生ける人形』(1928年)
 『綾里村快挙録』(1930年)
・黒島伝治[1898~1943年]
 『豚群』(1926年)
 『橇』(1927年)
・橋本英吉[1898~1978年]
 『棺と赤旗』(1928年)
 『炭坑』(1934年)
・宮本百合子[1899~1951年]
 『一九三二年の春』(1932年) 
 『冬を越す蕾』(1935年)
 『乳房』(1935年)
・徳永直[1899~1958年]
 『太陽のない街』(1929年)
・谷口善太郎[1899~1974年]
 『綿』(1931年)
 『清水焼風景』(1932年)
・村山知義[1901~1977年]
 『スカートをはいたネロ 戯曲集』(1927年)
・中野重治[1902~1979年]
 『鉄の話』(1930年)
・蔵原惟人[1902~1991年]
 『芸術と無産階級』(1929年)
 『プロレタリア芸術と形式』(1930年)
 『プロレタリア文学のために』(1930年)
・小林多喜二[1903~1933年]
 『一九二八年三月十五日』(1928年)
 『蟹工船』(1929年)
 『転形期の人々』(1931~32年)
 『党生活者』(1932年)
・鹿地亘[1903~1982年]
 『労働日記と靴』(1930年)
・立野信之[1903~1971年]
 『標的になった彼奴』(1928年)
・窪川鶴次郎[1903~1974年]
・佐多稲子[1904~1998年]
 『キャラメル工場から』(1928年)
・本庄陸男[1905~1939年]
 『白い壁』(1934年)
・平林たい子[1905~1972年]
 『施療室にて』(1928年)
・松田解子[1905~2004年]
 『乳を売る』(1929年)
・宮本顕治[1908~2007年]
 『「敗北」の文学』(1929年)

〇全日本無産者芸術連盟とは?

 昭和時代前期の1928年(昭和3)3月25日に結成(初代委員長藤森成吉)された、プロレタリア芸術運動(労働者階級に根差した芸術を確立しようとする運動)の団体で、エスペラント語のNippona Proleta Artista Federacioの頭文字を組み合わせた略称を用い、NAPF(ナップ)とも呼ばれ、機関紙『戦旗』 (1928年5月~1931年12月) を発行しました。
 1928年(昭和3)3月15日に、三・一五事件(社会主義運動への弾圧事件)が起こり、プロレタリア芸術運動も大きな打撃を受けます。しかし、それに対抗して活動を強化すべく、それまで、プロレタリア芸術運動の分野で分裂していた「日本プロレタリア芸術連盟」(中野重治ら)と「前衛芸術家連盟」(蔵原惟人ら)が合同して、文学部、演劇部、美術部、音楽部、映画部、出版部の6専門部を設け、それらの領域でプロレタリア芸術運動を確立すべく活動しました。
 同年12月には、それぞれの部を独立させ、「日本プロレタリア作家同盟」(ナルプ)、「日本プロレタリア劇場同盟」(プロット)、「日本プロレタリア映画同盟」(プロキノ)、「日本プロレタリア美術家同盟」(ヤップ)、日本プロレタリア音楽家同盟(PM)などの諸組織の協議体となり、「全日本無産者芸術団体協議会」と改称したものの、略称ナップはそのまま使用しました。
 さらに、芸術運動機関誌として新たに『ナップ』 (1930年9月~1931年11月) を創刊します。その後、いっそう弾圧が厳しくなる中で、1931年(昭和6)にプロレタリア文化団体の総結集をねらいとして、発展的に解消し、運動は「日本プロレタリア文化連盟」(略称:コップ)に引継がれました。