イメージ 1

 今日は、江戸時代後期の1847年(弘化4)に、自由民権思想家中江兆民の生まれた日ですが、新暦では12月8日となります。
 中江 兆民(なかえ ちょうみん)は、高知城下の山田町(現在の高知市はりまや町)で、土佐藩の足軽の父・元助と母・柳の子として生まれましたが、本名は篤介といいました。
 藩校文武館に入り、1865年(慶応元)には、藩の留学生として長崎でフランス語を学び、土佐藩浪人坂本竜馬とも交わります。1867年(慶応3)に江戸に移り、フランス学を習得し、1871年(明治4)に岩倉遣外使節団同行の司法省派遣留学生になり、渡仏留学しました。
 1874年(明治7)に帰国し東京番町に仏学塾を開き、翌年には東京外国語学校校長となります。しかし、間もなく辞職し、元老院権少書記官を務めたものの、1877年(明治10)に退職しました。
 以後は在野で活躍し、1881年(明治14)に西園寺公望らと『東洋自由新聞』を創刊して主筆となり、明治政府を攻撃し、自由民権運動の理論的指導者となります。
 1882年(明治15)に仏学塾より雑誌『政理叢談』を刊行し、西欧近代思想を紹介、ルソー著『社会契約論』の翻訳「民約訳解」の連載は政治青年層に大きな影響を与え、「東洋のルソー」と言われるようになりました。
 1886年(明治19)に大同団結運動に参加、三大事件建白運動にも関与しますが、1887年(明治20)に「保安条例」により東京を追放され、大阪で『東雲新聞』を創刊して、反政府・自由民権の論陣を張るようになります。
 1890年(明治23)に第1回衆議院議員総選挙に当選、立憲自由党に加盟して、『立憲自由党新聞』の主筆となったものの、翌年には議員辞職しました。
 その後、北海道の小樽へ行ったりもしましたが、1893年(明治26)には大阪に戻り、いろいろな実業に手を出したもののうまくいかず、1898年(明治31)には国民党を組織しましたが失敗します。
 晩年は、著述活動に専念しましたが、1901年(明治34)12月13日に、東京において、54歳で亡くなりました。

〇中江兆民の主要な著作

・訳著『民約訳解』(1882年)
・『政理叢談(せいりそうだん)』(1882年)
・『非開花論』(1883年)
・『理学鉤玄(りがくこうげん)』(1886年)
・『三酔人経論問答』(1887年)
・『四民の目さまし』(1887年)
・『論理学参考書道徳学大原論』前・後編(1894年)
・随想集『一年有半』(1901年)
・随想集『続一年有半』(1901年)