
この戦いは、美濃国関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町)において、徳川家康の率いる東軍と石田三成を中心とする西軍によって行われ、東軍が勝利して徳川氏の覇権が確立、俗に「天下分け目の戦い」と呼ばれてきました。
1598年(慶長3)豊臣秀吉が亡くなると、五大老・五奉行制に立脚していた豊臣政権は、内部分裂の兆しをみせ始め、五大老筆頭の徳川家康の政権奪取への野望から、石田三成らと対立します。
石田方には、毛利・宇喜多・上杉・島津・小西など、徳川方には加藤・福島・伊達・黒田などの諸大名がつき、伏見城や岐阜城などでの前哨戦を経た上で、古来からの要衝地である美濃国関ヶ原に双方(東軍約7万対西軍約8万)が布陣しました。
戦端は、1600年(慶長5年9月15日)午前8時頃、福島隊と宇喜多隊との射撃戦から始まり、全域に拡大し、当初は西軍有利の展開で進んでいたといわれています。午後になって、小早川秀秋の裏切りによって状況は一変し、脇坂ら4隊も続いて寝返り、西軍は総崩れとなって、その日の内に東軍勝利となりました。
その後、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊は捕らえられ、京都六条河原で処刑されます。西軍に荷担した諸大名は改易や減封され、豊臣秀頼も摂津、河内、和泉の65万石の大名に成り下がりました。
これによって、徳川氏の覇権が事実上確立するに至り、江戸幕府開設へと向かうこととなります。
尚、主戦場となった関ヶ原古戦場跡は、1931年(昭和6)に国指定の史跡となり、近くに「関ヶ原町歴史民俗資料館」も出来て、この合戦の模様が詳しく展示されるようになりました。
〇関ケ原の戦い関係略年表(日付は旧暦です)
<1598年(慶長3)>
・8月18日 豊臣秀吉が亡くなる
・10月25日 五大老・五奉行から、日本軍の朝鮮からの帰国が命じられる
<1599年(慶長4)>
・閏3月3日 五大老の一人、前田利家が亡くなる
<1600年(慶長5)>
・6月 上杉景勝が会津に引きこもって家康に抵抗する
・6月18日 家康は、会津の上杉景勝討伐の軍を起こし、伏見城を出立する
・7月2日 家康が江戸城に入る
・7月15日 西軍による伏見城攻撃が始まる
・7月21日 家康は会津へ向かうため江戸城を出る
・7月24日 下野国小山(栃木県小山市)で三成挙兵を知ると軍議を開催する(小山評定)
・8月1日 西軍が伏見城を落とす
・8月23日 東軍先鋒が織田秀信(信長の孫)が守る岐阜城を落城させる
・9月1日 家康が江戸を出立して、西へ向かう
・9月12日 西軍の攻撃で、田辺城に籠城していた細川幽斎が退城する
・9月15日 関ケ原の戦いが行われ、東軍が勝利する
・9月23日 石田三成が捕らえられる
・9月27日 家康が大坂城に入城し、豊臣秀頼と和睦する
・10月1日 石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らが京都六条河原で処刑される