平田篤胤は、出羽国久保田城下(現在の秋田県秋田市)において、秋田佐竹藩大番組頭の大和田祚胤(としたね)の四男として生まれましたが、幼名を正吉といいましした。
数え年8歳のとき漢学を中山青莪に学び、11歳で医学を叔父柳元に教えられ、玄琢と称します。1795年(寛政7)に、数え年20歳で脱藩して江戸に出て、仕事を転々として生計を立てながら苦学しました。
1800年(寛政12)25歳のときに備中松山藩士平田篤穏(あつやす)の養嗣子となり、翌年、駿河沼津藩士石橋常房の娘・織瀬と結婚します。
1803年(享和3)、宣長学の立場から太宰春台の『弁道書』を批判した処女作『呵妄書』を著わしました。翌年に家塾真菅乃屋を開いて、3名の門人から出発して、子弟の教育にあたります。
1812 年(文化9)『霊能真柱』を著わし、その前後に『古道大意』、『俗神道大意』、『古史伝』などを書いて、活発に著作活動を行ないました。古典研究から進んで、尊王復古を主張する古道学を説き、文学的・考証学的要素を外れて信仰的となり、「平田神道」とも称される神学体系を作りあげます。
しかし、1841年(天保12)にその著作が幕府筋の忌むところとなり、著述差し止めと江戸退去命令を受け、国元に帰らされました。それでも、地方の豪農層・神官らに広まって、門人は増え続け、553人に達します。
その後、江戸帰還を果たせないまま、失意のうちに、1843年(天保14年閏9月11日)に、出羽国久保田において、数え年68歳で亡くなりました。
死後、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長と共に国学四大人の一人と呼ばれるようになり、幕末の尊王攘夷運動に思想的な影響を与えます。
〇平田篤胤の主要な著作
・『呵妄書』(1803年)
・『霊能真柱』(1812年)
・『古史伝』
・『出定笑語』
・『鬼神新論』(1820年)
・『仙境異聞』(1822年成立)
・『印度蔵志』(1826年成立)
・『気吹舎歌集』
・『古史成文』
・『古史徴』
・『歌道大意』
・『本教外篇』
・『西籍慨論』
・『勝五郎再生記聞』
・『赤県(から)太古伝』
・『古道大意』(1860年)
・『俗神道大意』(1860年)