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 今日は、昭和時代前期の1944年(昭和19)に、沖縄からの学童疎開船「対馬丸」が米軍潜水艦により撃沈された「対馬丸事件」が起きた日です。
 これは、日本郵船の貨物船「対馬丸」が、太平洋戦争中の1944年(昭和19)8月22日、政府命令による学童疎開輸送中にアメリカ海軍の潜水艦の攻撃を受け沈没し、犠牲者数1,476名(内、疎開学童780名)を出した事件です。
 1944年(昭和19)7月7日にサイパンが陥落し、沖縄周辺へも危機が迫る中で、政府は奄美大島・徳之島・沖縄諸島の老幼婦女子を対象に、日本本土へ8万人・台湾に2万人の計10万人を疎開させる命令を出しました。
 沖縄県は「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令して学校単位で疎開事務を進めます。そして、同年8月21日夕方、対馬丸・和浦丸・暁空丸と護衛艦の宇治・蓮を含む計5隻の船団を組んで、那覇港から長崎を目指して出航しました。
 しかし、翌22日の夜10時過ぎ、鹿児島県・悪石島の北西10kmの地点を航行中、米潜水艦ボーフィンの魚雷攻撃を受け「対馬丸」が沈没し、多くの犠牲者を出したのです。
 対馬丸撃沈から60年目の2004年(平成16)に、対馬丸事件の犠牲者の鎮魂と、子供たちに平和と命の尊さを教え、事件を正しく後世へ伝える為に、沖縄県那覇市に「対馬丸記念館」が開館しました。戦争の悲劇を後世に伝える施設で、入口は2階で、2階展示は、「対馬丸の出航」、「対馬丸の撃沈」、1階展示は、「沖縄の学童疎開」、「犠牲者の名前と遺影」となっていて、戦争は2度とはしてはいけないと考えさせられられるものです。 

〇「学童疎開」とは?
 太平洋戦争の末期に、アメリカ軍による日本本土爆撃に備え、東京、大阪、名古屋、横浜など大都市の国民学校初等科児童を集団的、個人的に、半強制により農村地帯へ移動させた措置のことです。
 アメリカ軍の爆撃機による直接的な本土攻撃の危機が増大した1943年(昭和18)12月21日「都市疎開実施要綱」が閣議決定されて都市施設の地方分散がはかられ、東京都での学童疎開も始まっていました。
 しかし、1944年(昭和19)6月15日に、アメリカ軍がサイパン島に上陸し、さらにその危険が増大することになり対策の強化が迫られたのです。
 その中で、同年6月30日、東条英機内閣は「学童疎開促進要綱」を閣議決定し、「縁故疎開」を「強力ニ勧奨スル」とともに、縁故のない児童について「集団疎開」を実施することになりました。
 そして、同年8月から学校単位の集団疎開が実施され、1945年(昭和20)の疎開児童数は約 45万人に達したのです。
 これにらの疎開先では公会堂、社寺、旅館などが宿舎とされ、そこで授業等も行われましたが、戦争末期の食糧不足、物資の欠乏により、その調達に追われる日々で、まとも教育はあまり行われませんでした。

☆「学童疎開」関係略年表

<1943年(昭和18)>
・12月10日 文部省により縁故による学童疎開促進が発表される
・12月21日 東條内閣により「都市疎開実施要綱」が閣議決定される

<1944年(昭和19)>
・6月30日 東条英機内閣が「学童疎開促進要綱」を閣議決定し、集団的な学童疎開が促進される
・7月5日 防空総本部は「帝都学童疎開実施細目」を定め、実施が勧奨される
・7月7日 緊急閣議により沖縄の疎開が決定される
・7月20日 文部省により集団的な学童疎開の範囲が東京のほか12都市に拡大される
・8月16日 沖縄県の九州などへの疎開が開始される
・8月22日 沖縄から本土への学童疎開のための「対馬丸」が米軍潜水艦により撃沈される(対馬丸事件)

<1945年(昭和20)>
・3月9日 集団疎開を1年以上継続することが閣議決定される
・3月15日 空襲に対処するため「大都市における疎開強化要綱」が閣議決定される(学童、母子など続々緊急疎開)