足利義澄は、1481年1月15日(文明12年12月15日)に、堀越公方・足利政知の次男(母は武者小路隆光の娘)として伊豆に生まれました。
元々将軍位継承の地位にはなく、1491年(延徳3)に上洛して天竜寺塔頭香厳院の喝食(かつしき)となり、法名を清晃と名乗ります。
1493年(明応2)3月に、室町幕府第10代将軍足利義稙が親裁権の強化を目指して河内出陣を強行したことから、管領細川政元がクーデタによって義稙を廃立する事件(明応の政変)が起きました。その後、細川政元に擁立されて清晃が足利家督になり、還俗して義遐と改名します。
1494年(明応3)12月27日 征夷大将軍に任じられ、室町幕府第11代将軍となりました。しかし、実権は細川政元が掌握し、典型的な傀儡で、実質的な支配は畿内近国にしか及ばないことになります。
1502年(文亀2)7月21日に義澄と改名し、翌年には従三位に叙されました。1507年(永正4)6月23日に、永正の錯乱によって、細川政元が家臣に暗殺されると幕政は混乱します。
翌年に周防に亡命していた前将軍・義稙が大内義興に擁せられて上洛したため、義澄は近江国へ逃れて将軍職を廃されました。
そして復帰できないまま、1511年(永正8)8月14日に、近江国水茎岡山城(現在の滋賀県近江八幡市)において、数え年32歳で病死します。
〇足利義澄関係略年表(日付は旧暦です)
・1480年(文明12)12月15日 堀越公方・足利政知の次男として伊豆に生まれる
・1491年(延徳3)上洛して天竜寺塔頭香厳院の喝食(かつしき)となる
・1493年(明応2)3月 明応の政変が起き第10代将軍足利義稙が廃立される
・1493年(明応2)4月28日 従五位下に叙され、元服して義遐と名乗る
・1493年(明応2)6月19日 義高と改名する
・1494年(明応3)11月24日 正五位下に叙され、左馬頭となる
・1494年(明応3)12月27日 征夷大将軍に任じられ、室町幕府第11代将軍となる
・1502年(文亀2)7月12日 従四位下に叙され、参議となり、左近衛中将を兼ねる
・1502年(文亀2)7月21日 義澄と改名する
・1503年(文亀3)1月14日 従三位に叙される
・1507年(永正4)6月23日 永正の錯乱によって、細川政元が家臣に暗殺される
・1508年(永正5)4月16日 前将軍義稙が大内義興に擁せられて上洛したため、征夷大将軍・参議・左近衛中将を解官される
・1511年(永正8)8月14日 近江国水茎岡山城(現在の滋賀県近江八幡市)において、数え年32歳で病死する
・1521年(永正18)8月12日 従一位・左大臣を追贈される
・1533年(天文2)9月12日 太政大臣を追贈される