緒方洪庵は、備中国足守(現在の岡山県岡山市)において、足守藩士佐伯瀬左衛門の三男として生まれましたが、幼名は田上之助といいました。1825年(文政8)に元服して田上惟章と名乗るようになり、父が大坂蔵屋敷留守居役になったため同行して大坂に出ます。
翌年に中天游の私塾「思々斎塾」に入門、4年間蘭学を学び、1831年(天保2)には、江戸へ出て坪井信道に入門(3年間在塾)、さらに宇田川玄真にも学びました。
1836年(天保7)に長崎へ遊学し、オランダ商館長ニーマンのもとで医学を学び、この頃から洪庵と号すようになります。
1838年(天保9)に、大坂に帰って瓦町で医業を開業するとともに、蘭学塾「適塾(適々斎塾)」を始めました。名が知られるようになり、門弟も増えたので、1845年(弘化2)に、過書町の商家跡へ適塾を移転します。
多くの人材が集い、門人は600名以上に及び、大鳥圭介、佐野常民、大村益次郎、福沢諭吉、橋本左内らを輩出しました。
また、1849年(嘉永2)に、牛痘種痘法による切痘を始め、『虎狼痢治準』、『扶氏経験遺訓』、『病学通論』などの著訳書を出して、蘭学・医学の発展に貢献します。
1862年(文久2)には、幕府の度重なる要請により、奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕し、「法眼」にも叙せられました。
しかし、1863年(文久3年6月11日)、江戸の役宅において突然喀血し、52歳で急逝します。
〇適塾とは?
蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が、江戸時代後期の1838年(天保9)に、大坂の瓦町に開いた蘭学の家塾ですが、正式には適々斎塾(てきてきさいじゅく)といいます。
1843年(天保14)には、船場過書町に移転して、大いに発展し、緒方洪庵が1862年(文久2)に江戸に移るまで続きます。この間の門人数は600名余りで、出身地はほぼ全国に及び、大村益次郎、福沢諭吉、橋本左内、大鳥圭介など幕末から明治にかけて活躍した人材を多数輩出しました。
尚、建物は現存していて、「緒方洪庵旧宅および塾」として1941年(昭和16)に国の史跡指定を受け、1964年(昭和39)には国の重要文化財ともなっています。
☆緒方洪庵の主要な著訳書
・『人身窮理小解』
・『虎狼痢 (ころり) 治準』
・訳書『病学通論』
・訳書『扶氏経験遺訓』
・訳書『人身窮理小解』
・訳書『視力乏弱病論』
・訳書『和蘭詞解略説』
・訳書『白内翳治(はくないえいち)術集編』