これは、京都で起こった内乱で、鳥羽法皇と崇徳上皇との皇位継承を巡る対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、崇徳上皇・藤原頼長側は源為義・平忠正の軍を招じ入れ、後白河・忠通側は源義朝・平清盛の軍を招じ入れて交戦しました。
半日で決着が付き、崇徳上皇・藤原頼長側が敗れ、上皇は讚岐に配流され、頼長は戦傷死、為義らは斬られたのです。
この騒乱は、世人に大きな衝撃を与え、武士の政治的立場を飛躍的に高め、政界進出を促すことになりました。
そして、1159年(平治元)の平治の乱へとつながり、その後の源平合戦を経て、武家政権成立へと向かっていくことになります。
〇源平合戦とは?
平安時代後期、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、日本各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最後には平氏政権の崩壊により、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いが、「源平合戦」(治承・寿永の乱)と呼ばれていました。有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。
☆源平合戦関係略年表(日付は旧暦です)
<保元元年(1156年)>
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される
<平治元年(1159年)>
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原で戦うが敗北する
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される
<永暦元年(1160年)>
・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される
<仁安2年(1167年)>
・2月 平清盛が太政大臣に就任する
<嘉応2年(1170年)>
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される
<承安2年(1172年)>
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる
<治承元年(1177年)>
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する
<治承3年(1179年)>
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる
<治承4年(1180年)>
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・6月22日 平家、福原遷都を強行する
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く
<養和元年(1181年)>
・閏2月4日 平清盛が病没する
<寿永2年(1183年)>
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲が平氏を破る
・7月28日 木曽義仲が、京都に入る
・10月14日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する
<寿永3年/元暦元年(1184年)>
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が木曽義仲を討つ
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する
<元暦2年/文治元年(1185年)>
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる
・11月28日 源頼朝が源義經追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)
<文治3年(1187年)>
・2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる