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 今日は、明治時代初期の1870年(明治3)に、日本最初の洋式石造灯台(日本4番目の洋式灯台)である樫野埼灯台が初点灯した日ですが、新暦では7月8日となります。
 この灯台は、紀伊半島にある和歌山県の南端、串本町の大島に立つ、白色の塔形をした石造の大型灯台でした。幕末の1866年(慶応2)5月に、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ「改税約書」(別名「江戸条約」)によって建設することを約束した8ヶ所の条約灯台の一つです。
 これらが順次建設されていったのですが、この灯台も「日本の灯台の父」と呼ばれるR・H・ブラントンが設計・指導して、1869年(明治2)4月に潮岬灯台と共に着工、翌年の7月8日<旧暦では6月10日>に完成、初点灯されました。
 このように、建設が急がれたのは、ここが古くから、海上交通の要所となっており、また沖合は流れが速く、風も強いため、航海の難所としても知られていたためです。
 現に、1890年(明治23)9月16日夜、トルコ海軍のエルトゥールル号が台風により、ここの沖で座礁沈没、587名が亡くなるという大惨事(エルトゥールル号遭難事件)が起きました。
 1954年(昭和29)に改築され、灯塔が中継ぎされましたが、建設以来110余年の風雪に耐え、現役で活躍する最古の洋式灯台となっています。
 灯塔高(地上から灯火まで)14.6m、標高は(平均海面から灯火まで)47m、第2等フレネル式レンズを使い、光度53万カンデラ、光達距離18.5海里(約34km)です。灯台のあたりには、かつて常駐していたイギリス人技師が植えた水仙が群生し、甘い香りに包まれていますが、現在では、自動点灯になり無人化されています。
 2002年(平成14)4月12日、展望台が完成し、灯台の下から6.5mの高さまで螺旋階段で結び、素晴らしい眺望(吉野熊野国立公園に含まれる風光明媚の地)を楽しむことができるようになりました。この展望台は、毎日午前8時半から午後5時まで一般に無料開放されています。
 また、旧退息所は、日本最古の石造灯台官舎として2003年(平成15)に国指定登録有形文化財に登録され、2010年(平成22)年の改修工事後は、有料(大人100円)で、一般公開(土・日・祝祭日等)されるようになりました。
 尚、2016年(平成28)7月、樫野崎灯台の光学系機械装置が一般社団法人日本機械学会によって、「機械遺産No.83」と認定されました。

〇「改税約書」(別名「江戸条約」)とは?

 幕末の1866年(慶応2年5月13日)に、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国との間で結ばれた「安政五か国条約付属貿易章程」の改訂協約で、江戸において締結されたので、別名「江戸条約」とも呼ばれていました。
 1863年(文久3)に長州藩がアメリカ、フランス、オランダの船を砲撃した下関事件に関連して、1865年(慶応元年9月)に、兵庫沖に集結した四国連合艦隊 (英・仏・米・蘭) の威嚇により、4ヶ国は、上京していた第14代将軍徳川家茂に対し、長州藩の下関での外国船砲撃事件の償金の3分の2を放棄する代りに、1858年(安政5)に結んだ「修好通商条約」の勅許、兵庫開港、関税率低減を要求します。これに対し、幕府は兵庫開港延期の代償として、関税率の引下げ要求に応じるほかなくなりました。
 そして、輸入税に関して、「修好通商条約」の5~35%の従価税を廃止し、4ヵ年平均価格を原価とする一律5%を基準とする従量税とされ、きわめて不利な関税率となります。これによって、安価な外国商品が日本市場に流入し、産業資本の発達が厳しく阻害されることとなりました。その他、無税倉庫の設置や外国向け輸出品の国内運送非課税、貿易制限の撤去などがあわせて規定されます。
 この後、明治時代における条約改正の主目標となり、ようやく1894年(明治27)に廃棄されました。
 尚、この条約第11条「日本政府は外国交易の為め開きたる各港最寄船々の出入安全のため灯明台浮木瀬印木等を備ふへし」(灯明台規定)により、灯台を建設することを約束させられ、日本で初となる洋式灯台が8ヶ所(観音埼灯台、野島埼灯台、樫野埼灯台、神子元島灯台、剱埼灯台、伊王島灯台、佐多岬灯台、潮岬灯台)建設されることとなります。

〇R・H・ブラントンとは?

 日本の「灯台の父」とも呼ばれ、明治初期に主要灯台の建設にたずさわったイギリス人技師です。本名をリチャード・ヘンリー・ブラントンといい、1841年(天保12)12月26日に、イギリスのスコットランド・アバディーン洲キンカーデン郡に生まれました。
 もともと鉄道会社の土木首席助手として鉄道工事に従事していましたが、1868年(明治元)2月24日に、明治政府の雇い灯台技師として採用されました。
 短期間に灯台建設や光学等の灯台技術に関する知識を習得後、その年の8月8日、2人の助手と共に来日しましたが、当時はまだ26歳の青年でした。滞在していた8年ほどの間に、灯台26(下記の一覧参照)、灯竿5(根室、石巻、青森、横浜西波止場2)、灯船2(横浜港、函館港)などを建設し、灯台技術者養成の「修技校」を設置するなどして、灯台技術の継承にも力を尽くしました。
 また、灯台以外にも、日本最初の電信工事(明治2年・横浜)、鉄橋建設(横浜・伊勢佐木町の吉田橋)、港湾改修工事計画策定(大阪港・新潟港)、横浜外人墓地の下水道工事の設計など数多くの功績を残し、1876年(明治9)3月10日離日して、イギリスへ帰国しました。
 帰国後のブラントンは、「日本の灯台(Japan Lights)」という論文を英国土木学会で発表、テルフォード賞を受賞しました。その後は、ヤング・パラフィン・オイル会社支配人、建築装飾品製造工場の共同経営、土木建築業の自営など、建築家として多くの建物の設計・建築に携わりました。そして、仕事の合間に書きためてあったものを『ある国家の目覚め-日本の国際社会加入についての叙述と、その国民性についての個人的体験記』という原稿にまとめ終えてまもなく、1901年(明治34)4月24日に、59歳で亡くなっています。

〇エルトゥールル号遭難事件とは?

 1890年(明治23)9月16日夜、親善訪日使節団として来ていたオスマン帝国の軍艦「エルトゥールル号」が帰途、台風により熊野灘で暴風雨にあい、和歌山県串本沖の樫野埼灯台下の岩礁で座礁沈没したのです。その結果、乗組員650名の内、587名が亡くなるという大惨事が起きました。
 この時、大島の島民は、生存者の救出に尽力し、63名の命を救うと共に、遺体の捜索もし260体を収容して、樫野埼の丘に埋葬します。島民らの献身的な救助活動は、トルコ本国の人々にも深い感動を与えました。
 それがきっかけとなって、樫野埼灯台近くに、遭難記念碑が立ち、トルコ記念館が開館したのです。そこには、遭難したエルトゥールル号の模型や遺品、写真等が展示されました。また、串本町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭が5年ごとに行われています。