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 今日は、江戸時代前期の1651年(慶安4)に、江戸幕府第三代将軍徳川家光の亡くなった日ですが、新暦では6月8日となります。
 徳川家光は、1604年(慶長9年7月17日)に、江戸幕府第二代将軍となった父・徳川秀忠の次男として、正室於江与(崇源院)を母として、江戸城内で生まれましたが、幼名は竹千代といいました。
 春日局が乳母となって育て、1620年(元和6)に正三位権大納言、続いて元服して家光と名のります。1623年(元和9)に父秀忠と共に上洛し、将軍宣下を受けて、第三代将軍となり、初めは土井利勝、酒井忠世らの補佐を得て幕政にあたりました。
 1632年(寛永9)の大御所秀忠の死後は、1635年(寛永12)「武家諸法度」を改訂して参勤交代を制度化して大名支配体制を確立、1638年(寛永15)島原の乱を平定してキリシタン取り締まりを強化、翌年にはポルトガル人追放を決定、1641年(寛永18)にはオランダ人を長崎出島に移して鎖国体制を整えるなどの“武断政治”と呼ばれる施策を実施します。
 これらによって、法制・職制・兵制などの諸制度が整い、以後200年余にわたる幕府の支配体制を確立しました。一方で、茶道・画等を嗜み、祖父家康を尊崇し、日光東照宮造営などに巨費を投じて、幕府財政窮乏の原因を作ったとも言われています。
 しかし、1651年(慶安4年4月20日)に、江戸城において、46歳で亡くなり、法号は大猷院とされ、日光山に葬られました。

〇徳川家光略年表

・1604年(慶長9) 徳川秀忠(江戸幕府第二代将軍)の次男として生まれる
・1620年(元和6) 正三位権大納言、続いて元服
・1623年(元和9) 父秀忠と共に上洛し、将軍宣下を受けて第三代将軍となる
・1623年(元和9) 摂家鷹司家から鷹司孝子が江戸へ下って輿入れする
・1623年(元和10) 諸国巡見使を派遣する
・1626年(寛永3) 再度上洛し従一位左大臣となる
・1632年(寛永9) 大御所秀忠が亡くなる
・1634年(寛永11) 三度上洛し太政大臣に任じられたが辞退する
・1635年(寛永12)「武家諸法度」を改定して初めて参勤交代の制度を定める
・1638年(寛永15) 島原の乱を平定する
・1639年(寛永16) ポルトガル船の日本渡航を禁止
・1641年(寛永18) オランダ人を長崎出島に移す
・1642年(寛永19) 寛永の大飢饉が発生する
・1643年(寛永20) 「田畑永代売買禁止令」を発布する
・1644年(寛永21) 宗門改めの制を定める
・1651年(慶安4) 江戸城において亡くなる