本名は、与謝野寛といい、1873年(明治6)2月26日、京都府岡崎町(現在の京都市左京区)で、僧侶であった父・与謝野礼厳、母・初枝の4男として生まれました。
幼くして仏典、漢籍、国書を学び、早くから才を見せ、1889年(明治22)に西本願寺で僧侶となります。
その後、山口県都濃郡徳山町(現在の周南市)の寺に赴き、徳山女学校の教員となり3年ほど勤めましたが、問題を起こして退職し、京都に戻ります。
1892年(明治25)に上京し、落合直文の弟子となり、「浅香社」という結社を落合を中心にうち立てて、1894年(明治27)に歌論「亡国の音」を発表して、新しい和歌を提唱しました。
1899年(明治32)には東京新詩社を創立、ここを母体としてまだ27歳の若さで、1900年(明治33)に『明星』を創刊することになります。さらに翌1901年、新詩社社友となって『明星』に短歌を発表していた当時23歳の晶子を妻としました。新派和歌運動に貢献し、口語詩を主張し、妻晶子と共に浪漫主義文学運動を進めます。
1905年(明治38)には「鉄幹」の号を使わなくなり、1907年(明治40)には、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里を引き連れて九州を旅し、共同で紀行『五足の靴』を発表しました。
1911年(明治44)には、晶子と共に、フランス、ロンドン、ウィーン、ベルリンを歴訪します。その後、1919年 (大正8) から1932年 (昭和7) まで13年間、慶応義塾大学の教授も勤めましたが、1935年(昭和10)3月26日に、東京において63歳で没しました。
〇与謝野寛(鉄幹)の主要な作品
・歌論『亡国の音(おん)』(1894年)
・詩歌集『東西南北』(1896年)
・詩歌集『天地玄黄(てんちげんこう)』(1897年)
・詩歌集『鉄幹子』(1901年)
・詩歌集『紫』(1901年)
・詩歌集『うもれ木』(1902年)
・詩歌集『毒草(どくぐさ)』与謝野晶子と共著(1904年)
・紀行『五足の靴』北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里と共著(1907年)
・詩歌集『(かし)の葉』(1910年)
・歌集『相聞(あいぎこえ)』(1910年)
・紀行『巴里(パリ)より』与謝野晶子と共著(1914年)、
・訳詩集『リラの花』(1914年)