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 今日は、鎌倉時代初期の1190年(文治6)に、武士・僧侶・歌人西行(さいぎょう)の亡くなった日ですが、新暦では3月31日となります。
 西行は、平安時代後期の1118年(元永元)に、藤原氏藤成流の父・検非違使左衛門尉佐藤康清、母・監物源清経の娘の子として生まれましたが、俗名は佐藤義清と言いました。
 1135年(保延元)に、左兵衛尉に任ぜられ、1137年(保延3)には、北面の武士として鳥羽上皇に仕えましたが、和歌のみならず、武芸、蹴鞠にも堪能であったとされています。
 しかし、1140年(保延6)に22歳で出家し、円位を名のり、嵯峨や鞍馬の奥などにこもり、また伊勢に下向したり、1144年(天養元)ごろには奥羽地方へも旅行しました。
 後に、高野山を本拠とする聖の生活に入り、真言宗に属しましたが、諸国を巡る漂泊の旅に出ながら、和歌を詠んだりしました。
 晩年は、伊勢国の二見浦近くにも数年住みましたが、藤原定家・家隆、寂蓮らに『二見浦百首』を勧進したり、『御裳濯河』『宮河』の2編の自歌合を編み、各々俊成、定家に加判を委嘱したりしています。
 その後、河内国の弘川寺(現在の大阪府南河内郡河南町)に庵居していた1190年(文治6年2月16日)に、73歳で亡くなりました。
 家集に『山家集』、『異本山家集』、『聞書集』、『聞書残集』、自撰の歌合に『御裳濯河歌合』、『宮河歌合』があり、『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入集第1位)など勅撰集にも多く入集していて、後の飯尾宗祇や松尾芭蕉らに影響をあたえたと言われています。

<西行の代表的な歌>

・「惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ」(『玉葉和歌集』より)
・「嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな」(『小倉百人一首』より)
・「風になびく 富士の煙の 空に消えて 行方も知らぬ わが思ひかな」(『新古今和歌集』より)
・「年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 佐夜の中山」(『新古今和歌集』より)
・「ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ」(『山家集』より)