この戦いは、平安時代後期の源平合戦の一つで、一ノ谷(兵庫県神戸市須磨区)一帯が戦場となりました。
1184年(寿永3年2月7日)に源義経・範頼軍が再挙を計った平氏軍を一ノ谷に襲い、海上に敗走させた戦いで、義経の鵯越の奇襲戦法が知られています。
また、須磨海岸の波打ち際での平敦盛と熊谷直実一騎打ちによって打たれた敦盛の話は、「平家物語」中でも最も悲しく哀れを誘う場面として有名です。
須磨寺には敦盛愛用の青葉の笛、合戦時に弁慶が安養寺から長刀の先に掛けて担いできて陣鐘の代用にしたという弁慶の鐘などの宝物があります。また、境内には、敦盛の首塚、義経の腰掛け松などの史跡があり、古来から「平家物語」を偲んで文人墨客が訪れている所です。
それを示すように松尾芭蕉、正岡子規、与謝蕪村、尾崎放哉などの句碑や歌碑が建てられています。須磨浦公園には、敦盛塚や源平合戦800年記念碑などあって当時の合戦を思い出させてくれます。
以下に、流布本「平家物語」(巻第九)の“敦盛”の名場面を掲載しておきますので、ご参照ください。
〇「平家物語」(巻第九)
敦盛
さるほどに一谷の軍敗れにしかば、武蔵国の住人、熊谷次郎直実、平家の君達助け舟に乗らんとて、汀の方へや落ち行き給ふらん、あつぱれよき大将軍に組まばやと思ひ、渚を指して歩まする処に、ここに鶴縫うたる直垂に、萌黄匂の鎧着て、鍬形打つたる甲の緒を締め、金作の太刀を帯き、二十四差いたる切斑の矢負ひ、滋籐の弓持ち、連銭葦毛なる馬に、金覆輪の鞍置いて乗つたる武者一騎、沖なる舟を目にかけ、海へさつとうち入れ、五六段ばかり泳がせける。熊谷、「あれはいかに、よき大将軍とこそ見参らせ候へ。正なうも敵に後ろを見せ給ふものかな。返させ給へ返させ給へ」と、扇を挙げて招きければ、招かれて取つて返し、渚に打ち上がらんとし給ふ処に、波打際にて押し並び、むずと組んで、どうと落ち、取つて押さへて首を馘かんとて、内甲を押し仰けて見たりければ、年の齢十六七ばかりなるが、薄仮粧して鉄漿黒なり。我が子の小次郎が齢ほどにて、容顔まことに美麗なりければ、何処に刀を立つべしとも覚えず。「いかなる人にて渡らせ給ひやらん。名乗らせ給へ。助け参らせん」と申せば、「汝は誰そ、名乗れ聞かう」「物その者では候はねども、武蔵国の住人熊谷次郎直実」と名乗り申す。「汝が為にはよい敵ぞ。名乗らずとも首を取つて人に問へ。見知らうずるぞ」とぞ宣ひける。熊谷、「あつぱれ大将軍や。この人一人討ち奉りたりとも、負くべき軍に勝つ事はよもあらじ。また助け奉るとも、勝つ軍に負くる事もよもあらじ。我が子の小次郎が薄手負うたるをだに直実は心苦しう思ふぞかし。この殿の父討たれ給ひぬと聞き給ひてさこそは嘆き悲しび給はんずらめ。助け参らせん」とて、後ろを顧みたりければ土肥、梶原五十騎ばかりで出で来たり。熊谷涙をはらはらと流いて、「あれ御覧候へ。いかにもして助け参らせんとは存じ候へども、御方の軍兵雲霞の如くに満ち満ちて、よも遁れ参らせ候はじ。あはれ同じうは直実が手に懸け奉つてこそ、後の御孝養をも仕り候はめ」と申しければ、「ただいかやうにも疾う疾う首を取れ」とぞ宣ひける。熊谷あまりにいとほしくて、何処に刀を立つべしとも覚えず、目も眩れ心も消え果てて、前後不覚に覚えけれども、さてしもあるべき事ならねば、泣く泣く首をぞ馘いてける。「あはれ弓矢取る身ほど口惜しかりける事はなし。武芸の家に生れずば、何しに只今かかる憂き目をば見るべき。情なうも討ち奉つたるものかな」と、袖を顔に押し当て、さめざめとぞ泣き居たる。首を包まんとて、鎧直垂を解いて見ければ、錦の袋に入れられたりける笛をぞ腰に差されたる。「あないとほし、この暁城の内にて、管絃し給ひつるは、この人々にておはしけり。当時御方に東国の勢、何万騎かあるらめども、軍の陣へ笛持つ人はよもあらじ。上臈はなほも優しかりけるものを」とて、これを取つて大将軍の御見参に入れたりければ、見る人涙を流しけり。
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流布本『平家物語』 より