尾崎放哉は、明治時代後期から大正時代の俳人で、種田山頭火らと並び、自由律俳句(五・七・五の十七音や季語といった定型の制約に制限されることなく感じたままを自由に表現する俳句)の最も著名な一人でした。
1885年(明治18)1月20日に、鳥取県邑美郡吉方町(現在の鳥取市)において、鳥取県の士族で鳥取地方裁判所の書記官・尾崎信三の次男として生まれましたが、本名は、尾崎秀雄と言います。
鳥取県立第一中学校(現在の鳥取県立鳥取西高等学校)を経て、1902年(明治35)に上京して、第一高等学校(旧制一高)法科に入学しました。一高俳句会に参加し荻原井泉水を知るようになります。
1905年(明治38)に東京帝国大学法学部に進学し、俳句雑誌『ホトトギス』に投句して入選、その後「放哉」の号を使うするようになりました。
1909年(明治42)に卒業後は、通信社を経て、東洋生命保険に就職し、大阪支店次長を務めるなど、出世コースを進み、豪奢な生活を送っていたエリートでしたが、1916年(大正5)には、東洋生命を退社します。
その後、朝鮮や満州に渡って再起を図りますがうまくいかず、結核を患って、療養を余儀なくされました。
それからは、地位・財産・家族を捨てて、一灯園に入園し、それ以後は放浪の俳人生活を送ることとなります。身を持ち崩し、いくつかの寺を転々として、最後にたどり着いたのが香川県の小豆島でした。
しかし、自由律俳句の天才として、斬新な歌を詠み続け、病魔と闘いながらの最後には、感銘深いものがあります。そして、1926年(大正15)4月7日に、小豆島において、42歳の生涯を終えました。
〇尾崎放哉の代表的な句
・「咳をしても一人」
・「入れものがない 両手で受ける」
・「足のうら洗えば白くなる」
・「春の山のうしろから烟が出だした」
・「一日物云わず蝶の影さす」
・「こんなよい月を一人で見て寝る」
・「わが顔ぶらさげてあやまりにゆく」
・「漬物桶に塩ふれと母は生んだか」
・「月夜の葦が折れとる」
・「墓のうらに廻る」