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 今日は、江戸時代前期の1637年(寛永14)に、島原の乱(島原・天草一揆)が起きた日ですが、新暦では12月11日となります。
 これは、日本の歴史上最大規模の一揆で、島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれました。以前この地方は,キリシタン大名有馬晴信や小西行長の領地で、住民にもキリスト教徒が多かったのですが、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い後、天草の領主は寺沢氏に代り、1615年(元和元)に、島原の領主が松倉氏に代ったのです。
 寺沢氏・松倉氏は、キリシタン信者に対する過酷な弾圧と農民への過重な年貢の負担を強制し、滞納する者には重罰を課しました。
 その中で、1637年(寛永14年10月25日)に、有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官・林兵左衛門を殺害し、これをきっかけに島原半島一帯の農民が蜂起します。
 豪農益田甚兵衛の子四郎時貞(16歳)が首領に推され、商人、手工業者、船頭なども参加、さらに天草の農民も加わって、大規模な一揆となりました。
 一揆勢は、最初は島原藩兵を追い返したり、11月14日の本渡の戦いでは、富岡城代の三宅重利を自刃させるなど優勢でしたが、九州諸藩の討伐軍が來ると原城跡に約3万7千人が立て籠もったのです。
 江戸幕府は12月に鎮圧のため板倉重昌を派遣し、近隣諸藩の兵を指揮させましたが、翌年元旦の総攻撃で重昌は戦死してしまいました。
 その後、老中松平信綱が着陣して指揮を取り、十数万の包囲軍による兵糧攻めや艦砲射撃なども行います。そして、一揆勢の食糧や弾薬が尽きた頃、幕府軍の総攻撃によって陥落し、1638年(寛永15年2月28日)に終結しましたが、一揆勢はほぼ全員が殺されました。
 しかし、幕府側も40万両余の戦費と数千の武士を失うという痛手で、原因を作った松倉重次を処刑し、寺沢氏の所領を没収するなどの処置を取ったのです。
 これ以後、キリスト教への弾圧は一層きびしくなり、鎖国を促すことにもなりました。

〇「原城跡」とは?
 長崎県南島原市にあり、島原の乱(1637-1638年)で、幕府軍とキリスト教徒中心の一揆勢が戦ったところで、本丸跡には首領天草四郎時貞の像が立っています。
 城跡には、大手門跡、板倉重昌碑、本丸跡、ホネカミ地蔵、天草四郎像、天草四郎墓などが残され、現在は、国指定史跡となっています。
 今はほとんどが農耕地となっていて、しかも海の眺望が良く、のどかな田園地帯なのですが、ここで島原の乱があり、約3万7千人が死んだとは思えないくらいでした。

〇「天草四郎メモリアルホール」とは?
 熊本県上天草市の大久野島は、島原の乱(1637-1638年)の首謀者である天草四郎の出身地で、「天草四郎メモリアルホール」がありますが、丘の上の協会風の建物です。江戸時代前期の一大事件はこの地方の農民たちによって引き起こされたのです。
 幕府、大名による過酷な弾圧は、キリシタンたちを団結させ、一揆に立ち上がらせました。その時代に、神を最高のものとして、崇めることは異端でした。幕府側の徹底した反撃に、最後は島原半島の原城跡に約3万7千人が立て籠もっての長期の抵抗の末、全員虐殺されたのです。しかし、それによってキリシタン信仰を根絶やしにすることは出来ず。陰に隠れ、連綿として受け継がれていくことになります。あの江戸時代の長きにわたって、信仰を守り通したことは、驚異といっても良いと思います。
 館内の最後に、なんとも不思議な部屋「瞑想のホール」があって、音と光の中で、静かに回想できるのです。床には、奇妙なクッションが置いてあって、座りながらしばらくくつろいでみましたが、何とも言えない異空間を体験しました。外には、天草四郎之像とキリシタン墓があります。

〇「キリスト教の伝来と禁教令」とは?
 1549年(天文18)に、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが、鹿児島に来航して、キリスト教は伝来しました。その後、大内義隆や大内義鎮などの保護もあって、機内や九州北部を中心に広がります。
 各地に南蛮寺(教会堂)やコレジオ(宣教師学校)、セミナリオ(神学校)なども建てられ、高山右近などのキリシタン大名(洗礼を受けた大名)も登場して、天正遣欧使節も送られたりしました。
 しかし、豊臣秀吉により、1587年(天正15)にバテレン追放令が出されるなどして、次第にキリシタン弾圧が始まります。
 江戸時代になると、1612年(慶長17)に幕府直轄領に禁教令が出され、翌年には全国に及ぶようになります。この後は、宣教師や信者の処刑や海外追放などの激しい迫害が始まりました。