この事件は、神奈川の生麦村(現在の横浜市鶴見区)で起こった薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件です。
薩摩藩の島津久光一行が、江戸からの帰途、騎馬のイギリス人リチャードソンら4名と行き会い、馬を下りずに行列を乱したのを無礼とし、供頭の奈良原喜左衛門が突然斬りつけ,続いて多数で襲撃し、リチャードソンは絶命、2人が重傷を負いました。
イギリスは幕府と薩摩藩に犯人引き渡しと賠償金を要求し、幕府はこれに応じましたが、薩摩藩はあくまで拒否したため、薩英戦争の原因となりました。
〇「薩英戦争」とは?
江戸時代末期の1863年(文久3年7月2~4日)、薩摩国鹿児島で行われた、薩摩藩とイギリス艦隊との戦闘です。
1862年(文久2年8月21日)に起きた生麦事件に対して、イギリス代理公使 E.ニールは、江戸幕府に対して公式謝罪状および償金10万ポンドを要求し、薩摩藩に対しては、犯人の処刑と償金2万5千ポンドを要求しました。
しかし、江戸幕府は従ったものの、薩摩藩は拒否したため、ニール公使は、みずからの力で事態の解決をはかり、翌年6月27日に、イギリス艦隊を鹿児島湾に侵入させ、翌日犯人の処刑と前記償金の支払いを求めたのです。
これに対し、薩摩藩が回答しなかったため、7月2日イギリス艦隊は薩摩藩の汽船天祐丸、白鳳丸、青鷹丸を拿捕し、鹿児島に砲撃を加え、薩摩藩も応戦したので、戦闘状態となりました。
戦闘は4日まで続きましたが、鹿児島城下は砲火を浴びて、鹿児島城内の櫓、門等を損壊、集成館、鋳銭局など重要施設を含む市街地の1割を焼亡し、イギリス側も艦船を損傷、死傷者63人を出し、食料・弾薬・石炭の欠乏、船体修理のため退去し、横浜に帰ったのです。
同年11月横浜で交渉の結果、薩摩藩は償金を江戸幕府の立替え払いで支払い、イギリス側も薩摩藩の軍艦購入を周旋するなどの条件で和議が成立し、以後両者の提携が進むことになりました。