「米騒動」は、大正時代の1918年(大正7)に米価急騰に怒った民衆が米屋等を襲った事件です。
第1次世界大戦中のインフレ政策で実質賃金は低下し、さらにシベリア出兵の決定によりいっそう米買占めが行われたことと寺内内閣の米価調節失敗のために、7月以降米価は異常に暴騰しました。
その中で、民衆の生活難と生活不安が深まり、この年の7月に富山県下新川郡魚津町(現在の富山県魚津市)の主婦達の行動に端を発し、県外への米の積み出しを阻止したり、米屋を襲ったりしたものです。
それが全国に波及して、米屋への安売り要求や打ちこわし、示威行動などが展開されました。
軍隊が出動して鎮圧されましたが、この事件で寺内内閣は総辞職に追い込まれ、原敬を首相とする政党内閣が出現することになります。
これらのことは、護憲運動や普通選挙運動、労働運動、農民運動などの発展にも影響を与えた言われています。
以下に、当時の「米騒動」を報じた新聞記事の一部を掲載しておきます。
〇「米騒動」を報じた新聞記事
・「北陸タイムス」1918年(大正7)7月24日付
「下新川郡魚津町大字上下新猟師町民は主に漁を以て生命を繋ぎ居る者なるが此頃は漁の切れ目で左程収入がなく一方出稼の主人及家族よりも送金がないので,留守宅の妻子等は物価騰貴の影響を受けて糊口に困難する所より誰言ふとなく一つ党を与して役場へ救助方を迫らうでないかと発起したが何れもソレは良策なりと忽ち附和雷同し二十日未明同海岸に於て女房共四十六人集合し役場へ押し寄せんとせしを逸早く魚津警察署に於て探知し巡査数名を同所へ派遣し其不心得を説諭して解散せしめ……」
・「富山日報」1918年(大正7)7月25日付
「下新川郡魚津町の漁民は近来の不漁続きに痛く困憊し、生活難を訴ふる声日に高まり、果ては不穏の形勢を醸すに至りしは昨報の如くなるが、二十三日も汽船伊吹丸が北海道行きの米を積み取る為入港し、艀船にて積込みの荷役中、かくと聞きし細民等は、そは一大事也、さなきだに価格騰貴せる米を他国へ持ち行かれては、品不足となり益々暴騰すべしとの懸念より、群を成して海岸に駆け付け米を積ませじと大騒動に及びし為、仲仕人夫も其気勢に恐れを懐き遂に積込みを中止したり、依って伊吹丸乗組員も此上群集せる細民と争うは危険なりと考え、目的の積込みを中止し早々に錨を抜いて北海道に向け出帆せり。」
・「東京朝日新聞」1918年(大正7)8月5日付
「富山県中新川郡西水橋町町民の大部分は出稼業者なるが、本年度は出稼先なる樺太は不漁にて、帰路の路銀にも差支ふる有様にて、生活頻る窮迫し、加ふるに昨今の米価暴騰にて、困窮愈其極に達し居れるが、三日午後七時漁夫町一帯の女房二百名は海岸に集合して三隊に分れ、一は浜方有志、一は町有志、一は浜地の米屋及び米所有者を襲い、所有米は他に売らざること及び此際義挾的に廉売を嘆願し、之を聞かざれば家を焼払ひ、一家を鏖殺すべしと脅迫し、事態頻る穏かならず。斯くと聞き東水橋警察署より巡査数名を出動させ、必死となりて解散を命じたるに、漸く午後十一時頃より解散せるも、一部の女達は米屋の附近を徘徊し米を他に売るを警戒し居れり。」
・「大阪毎日新聞」1918年(大正7)8月5日付
「高岡市内の十石以上米所有者の二日正午迄に届出たるもの六百七十八石にして三日締切り間際には三千石に達する見込みなるが案外在石の少きに当局も驚き居れり一方市内の米小売業者の少数の除き其大多数は持米の欠乏甚だしく売渡しを差し留め居るものあり四日以後は全く底ざらいとなるべし、一日来市内袋町平野五兵衛(多額納税者)が千三百石を所有せるより当業者一同平野方に詰め掛け売渡しを迫りつつあるも応ぜず憤慨の余り高岡警察に出頭平野に説諭を懇請し居れるが此の儘応ぜざれば由々敷大事発生せんとするやも知れず(高岡来電)」