
山岡鉄舟は、通称は鉄太郎といい、江戸時代後期から明治時代前期に活躍し、勝海舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と言われて、剣・禅・書に秀でていました。
1836年(天保7年6月10日)に、江戸本所(現在の東京都墨田区)の旗本小野朝右衛門と磯の子として生まれました。
9歳より神陰流剣術を学び、1845年(弘化2)に飛騨郡代となった父に従って飛騨高山へ行き、幼少期を過ごすことになります。
1852年(嘉永5)、父の死に伴い江戸へ帰り、剣を北辰一刀流千葉周作に、槍を刃心流山岡静山に学び、その妹と結婚して、山岡家を継ぎました。
1856年(安政3)講武所剣術世話役に、1862年(文久2)には幕府が募集した浪士隊の取締役となったのです。
1868年(慶応4)の戊辰戦争の際には、勝海舟の使者として駿府に行き、西郷隆盛と会見して、江戸開城についての勝・西郷会談の道を開きました。
明治維新後は、1869年(明治2)に静岡藩権大参事となり、1871年(明治4)の茨城県参事を経て、翌年6月には侍従へとなったのです。その後、宮内大丞、宮内少輔を歴任しましたが、1882年(明治15)には辞職しました。
1885年(明治18)には、一刀正伝無刀流を立てて、その開祖となったのです。
1887年(明治20)、功績により子爵に叙されましたが、1888年(明治21)7月19日に、53歳で亡くなりました。諱は高歩で、墓は普門山全生庵(東京都台東区谷中)にあります。
〇無刀流剱法修行規則
無刀流ノ剱法者事理一致ヲ修行スルヲ以テ第一トス、諸流ノ元祖各一流ヲ開キシハ其剱法ニ於テ発明スル処ヲ以テ流義ヲ立シモノ也、当今各其流法ヲ守リ、真ニ之ヲ修行スル者ナシ、一般ニ長竹刀ヲ以テ唯勝ヲ争而已、是如何ナル故ト考ルニ剱法ノ至理ヲ知ル者ナキヨリ、唯流行ニ走リ、外見ノヨキヲ主トス、故ニ実地真剱ノ場ニ至リテハ、タトヘ勝ヲ得ルモ僥倖ニイテヽ、真ニ明白ノ勝トハ云難シ、予カ見ル処ハ是ニ異ナリ、外見体裁ニ不拘、真ノ理、自然ノ勝ヲ以テ安心ノ地トス、此道ノ真理ヲ修セント欲セハ、初心ノ者、予カ門ニ入ルハ三年ヲ期シ、身体充実スルヲ規則トス、則身体ヲ錬ルハ天然自然、無理ヲナサス、剱法ノ本体備リ、他流ニ立向フトモ、流義ノ本体ヲミタサヽル位置ニ至ル者ナリ、実ニ剱法修行ヲ為ントセハ、予カ門ニ入シ人三年ノ間ハ当今流行ノ剱法道場ニ行キ、猥リニ試合ヲナスヲ禁ス、是予カ門ニ入シ人ヲ他ニ出スヲ嫌フニアラス、流義ノ体ヲ備ヘントセシヲ破ルヲ嫌ヘルナリ、剱法真ノ修行ヲ望マサル人ハ、決シテ予カ道場ニ来ルヲ好マス、無益ノ労ヲ費スハ予カ好ム処ニアラス、古ヨリ諸流派、他流試合ヲ禁ス、剱法免許ニアラスンハ許可セス、是則諸流ノ元祖、艱難辛苦シテ其道ヲ発明シテ、流義ヲ立テシ所以ナリ、誓テ真ノ剱法修行ノ士ニアラスンハ、我カ道場ニ来ル事ナカレ
明治十五年七月
剱道中興無刀流開祖 山岡鐵太郎