佐久間象山(さくましょうざん又はぞうざん)は、江戸時代後期の松代藩士、兵学者、思想家で、名は国忠、のち啓、通称は修理です。
1811年(文化8年2月28日)に、松代藩士・佐久間一学国善の長男として信濃国埴科郡松代(現在の長野県長野市松代町)で生まれました。
1828年(文政11)、17歳で家督を継ぎ、1831年(天保2年3月)に藩主の世子である真田幸良の近習・教育係に抜擢されたのです。
1833年(天保4)に江戸に遊学し、林家の塾頭佐藤一斎の門に入り、詩文を学び、泰西の書を研究し兵学を講じたりしました。1842年(天保13)、主君真田幸貫が老中海防掛に就任すると、顧問に抜擢され、命を受けて海外事情を研究し、「海防八策」を建白したのです。
次いで、蘭学を勉強し、江川英竜に西洋砲術を学び、講じるようになりました。門下には、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬らの逸材がいます。
しかし、1854年(嘉永7)に吉田松陰の密航事件に連座して、以後9年間、松代に蟄居させられました。
1862年(文久2)には蟄居を解かれ、1864年(元治元)幕命を受けて上京し、公武合体論と開国論を要人に説いて回りましたが、それが尊攘激派の怒りを買い、同年7月11日に54歳で斬殺されたのです。
〇「海防八策」とは?
1842年(天保13)、主君真田幸貫が老中海防掛に就任したおりに、佐久間象山は顧問に抜擢され、命を受けて、アヘン戦争(1840~1842)で重大になっていた海外情勢を探究し、「海防八策」を幸貫に上書したとされています。
内容は、だいたい以下のようなものでした。
一、諸国海岸要害之所、厳重に炮台を築き、平常大炮を備へ置き、緩急の事に応じ候様支度候事。
二、阿蘭陀交易に銅を被差遣候事、暫御停止に相成、右之銅を以、西洋製に倣ひ数百数千門之大炮を鋳立、諸方に御分配有之度候事。
三、西洋之製に倣ひ堅固の大船を作り、江戸御廻米に難破船無之様支」度候事。
四、海運御取締りの義、御人選を以て被仰付、異国人と通商は勿論、海上万端之奸猾、厳敷御糾有御座候事。
五、洋製に倣ひ船艦を造り、専ら水軍の駆引を習はせ申度事。
六、辺鄙の浦々里々に至り候迄、学校を興し教化を盛に仕、愚夫愚婦迄も、忠孝節義を弁へ候様仕度候事。
七、御賞罰弥明に御威恩益々顕れ、民心愈固結仕候様仕度候事。
八、貢士之法起し申度候事
<現代語訳>
一、諸国の沿岸の要所にしっかりとした砲台を構築し、平時から大砲を設置して、緊急時に備えること。
二、オランダとの貿易に銅を輸出するのを停止し、その銅で欧米のような大砲を多数鋳造し、各所に配置すること。
三、欧米に劣らぬしっかりとした大船を作り、江戸に米を送るときに難破しないようにすること。
四、海運に携わる役人を厳選して、外国人との通商はもちろん、海上の取り締まりを強化すること。
五、海外の造船技術を学んで戦艦を造り、海軍の養成につとめること
六、辺境に至るまで全国津々浦々に学校を設置して教育を盛んにし、国民全てが忠孝や道徳を学ぶこと。
七、信賞必罰を徹底し、国家に対して民の信頼を高めること。
八、身分にとらわれない人材登用の道を設けること。