林芙美子は、昭和時代に活躍した小説家で、本名は、林フミコといい、1903年(明治36)12月31日に、福岡県門司市(現在の福岡県北九州市門司区)で行商人の娘として生れたといわれますが、はっきりしないそうです。
その後、各地を転々と放浪しながら育ち,1922年(大正11)に、尾道高等女学校を卒業後上京し、事務員・露天商・女工・女給などの職を遍歴しながら詩や童話を書き始めました。日記をつけるようにもなり、アナーキストの詩人や作家との交流の中で影響をうけるようになったのです。1926年(昭和元)、画学生の手塚緑敏と内縁の結婚をし、生活が安定しました。
1928年(昭和3)、『女人藝術』に「秋が来たんだ――放浪記」の連載を開始し、1930年(昭和5)に改造社から刊行した自伝的小説『放浪記』がベストセラーとなったのです。
他に「風琴と魚の町」「清貧の書」「牡蠣」『稲妻』『浮雲』等があり、戦後に渡って、第一線の女流作家としての活躍を続けましたが、1951年(昭和26)6月28日に47歳で急逝しました。
〇小説『放浪記』とは?
作家の林芙美子が自らの日記をもとに放浪生活の体験を書き綴った自伝的小説で、昭和時代前期の1928年(昭和3)、長谷川時雨主宰の『女人藝術』に、10月から翌々年10月まで20回、「秋が来たんだ――放浪記」として掲載されました。
そして、1930年(昭和5)に改造社から刊行した『放浪記』と『続放浪記』が好評を博し、ベストセラーとなったのです。
この小説は、昭和恐慌下の暗い東京で、貧困にあえぎながらも、向上心を失わず強く生きる一人の女性の姿が多くの人々をひきつけたものと思われます。
1939年(昭和14)、「決定版」を謳って新潮社から刊行された際、大幅な改稿が行われました。さらに、戦後になって1946年(昭和21)5月からは、「日本小説」に第三部の連載が始まり、1949年(昭和21)『放浪記第三部』として刊行されました。そして、1979年(昭和54)には、これら全てを含めた『新版 放浪記』が新潮社から刊行され、これが実質上の定本となりました。
また、1935年(昭和10)に木村壮十二監督(P.C.L.映画製作所)、1954年(昭和29)に久松静児監督(東映)、1962年(昭和37)に成瀬己喜男監督(東邦)と3度にわたり映画化されていますし、テレビドラマとしても何回か放送されています。
さらに、女優・森光子が1961年(昭和36)に主役で、東京の芸術座で初演した舞台版「放浪記」は、同一主演者により2009年(平成21)まで2,017回の上演を記録しました。
以下に、小説『新版 放浪記』の冒頭部分を紹介しておきます。
☆小説『新版 放浪記』の冒頭部分
「第一部
放浪記以前
私は北九州の或る小学校で、こんな歌を習った事があった。
更けゆく秋の夜 旅の空の
侘わびしき思いに 一人なやむ
恋いしや古里 なつかし父母
私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物ふとものの行商人であった。母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。母は他国者と一緒になったと云うので、鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関と云う処ところであった。私が生れたのはその下関の町である。――故郷に入れられなかった両親を持つ私は、したがって旅が古里であった。それ故、宿命的に旅人たびびとである私は、この恋いしや古里の歌を、随分侘しい気持ちで習ったものであった。――八つの時、私の幼い人生にも、暴風が吹きつけてきたのだ。若松で、呉服物の糶売せりうりをして、かなりの財産をつくっていた父は、長崎の沖の天草あまくさから逃げて来た浜と云う芸者を家に入れていた。雪の降る旧正月を最後として、私の母は、八つの私を連れて父の家を出てしまったのだ。若松と云うところは、渡し船に乗らなければ行けないところだと覚えている。
今の私の父は養父である。このひとは岡山の人間で、実直過ぎるほどの小心さと、アブノーマルな山ッ気とで、人生の半分は苦労で埋れていた人だ。私は母の連れ子になって、この父と一緒になると、ほとんど住家と云うものを持たないで暮して来た。どこへ行っても木賃宿きちんやどばかりの生活だった。「お父つぁんは、家を好かんとじゃ、道具が好かんとじゃ……」母は私にいつもこんなことを云っていた。そこで、人生いたるところ木賃宿ばかりの思い出を持って、私は美しい山河も知らないで、義父と母に連れられて、九州一円を転々と行商をしてまわっていたのである。私がはじめて小学校へはいったのは長崎であった。ざっこく屋と云う木賃宿から、その頃流行のモスリンの改良服と云うのをきせられて、南京ナンキン町近くの小学校へ通って行った。それを振り出しにして、佐世保、久留米、下関、門司、戸畑、折尾おりおと言った順に、四年の間に、七度も学校をかわって、私には親しい友達が一人も出来なかった。
「お父つぁん、俺アもう、学校さ行きとうなかバイ……」
せっぱつまった思いで、私は小学校をやめてしまったのだ。私は学校へ行くのが厭いやになっていたのだ。それは丁度、直方のうがたの炭坑町に住んでいた私の十二の時であったろう。「ふうちゃんにも、何か売らせましょうたいなあ……」遊ばせてはモッタイナイ年頃であった。私は学校をやめて行商をするようになったのだ。
直方の町は明けても暮れても煤すすけて暗い空であった。砂で漉こした鉄分の多い水で舌がよれるような町であった。大正町の馬屋と云う木賃宿に落ちついたのが七月で、父達は相変らず、私を宿に置きっぱなしにすると、荷車を借りて、メリヤス類、足袋、新モス、腹巻、そういった物を行李こうりに入れて、母が後押しで炭坑や陶器製造所へ行商に行っていた。
私には初めての見知らぬ土地であった。私は三銭の小遣いを貰い、それを兵児帯へこおびに巻いて、毎日町に遊びに出ていた。門司のように活気のある街でもない。長崎のように美しい街でもない。佐世保のように女のひとが美しい町でもなかった。骸炭がいたんのザクザクした道をはさんで、煤けた軒が不透明なあくびをしているような町だった。駄菓子屋、うどんや、屑屋くずや、貸蒲団屋、まるで荷物列車のような町だ。その店先きには、町を歩いている女とは正反対の、これは又不健康な女達が、尖とがった目をして歩いていた。七月の暑い陽ざしの下を通る女は、汚れた腰巻と、袖のない襦袢じゅばんきりである。夕方になると、シャベルを持った女や、空のモッコをぶらさげた女の群が、三々五々しゃべくりながら長屋へ帰って行った。
流行歌のおいとこそうだよの唄が流行はやっていた。
……… 」