宮坂英弌は、昭和時代に活躍した考古学者で、1887年(明治20)3月4日の生まれです。旧制諏訪中学校卒業後、郷里長野県諏訪郡での25年間の小学校教師、10年間の中学校教師を経て、1955年(昭和30)の「尖石考古館」の設立に伴い館長となりました。
この間、1929年(昭和4)から尖石周辺の遺跡の発掘を独力で行ない、尖石・与助尾根遺跡を発見し、日本における原始集落研究の魁となったのです。
1962年(昭和37)には、長野県考古学会の初代会長ともなり、著書に「尖石」、「蓼科」、「原始民族遺跡の研究」などがあります。
そして、1974年(昭和49)には、これらの功績が認められ、吉川英治文化賞を受賞しましたが、1975年(昭和50)6月11日に88歳で亡くなりました。
尚、「尖石縄文考古館」の展示室Aに宮坂英弌氏の展示があり、その足跡を知ることができます。
〇尖石遺跡とは?
長野県茅野市にある縄文時代中期の集落遺跡で、標高1,050~1,070mの八ヶ岳西側山麓地帯の大扇状地上にあって、東西に広がる長い台地状になっているところです。
地元の考古学者宮坂英弌によって、1929年(昭和4)に石囲炉跡が発掘されて注目され、それからも、宮坂氏の独力により、1940年(昭和15)から本格的な発掘が開始されました。途中、太平洋戦争で中断しましたが、1954年(昭和29)まで続けられたのです。
その後さらに、対岸にある与助尾根(よすけおね)遺跡の調査によって、中央空間を広場とする典型的集落構成が検出され、日本における縄文時代集落址研究のさきがけとなりました。
学史的にも重要な遺跡なので、1952年(昭和27)に「尖石石器時代遺跡」として、国の特別史跡に指定され、1993年(平成5)には、与助尾根も追加指定されています。
現在は、「尖石史跡公園」として整備されていて、その中心施設である「尖石縄文考古館」には、周辺で発掘された縄文土器等も並べられていますが、縄文時代中期の土器は、変化に富んだ造形が施してあり、その創造性の豊かさには驚かされるばかりです。
その中でも、“縄文のビーナス”、“仮面の女神”と呼ばれている国宝の土偶があって、大きな腰、太い足、しっかりと台地を踏ん張ったような、その姿はすばらしいものでした。
外には、与助尾根遺跡の復元住居もあり、縄文時代のむらの様子を再現していて、竪穴式住居を巡りながら古代人の生活にも思いを馳せることができます。
ちなみに、「尖石」の名称は遺跡の南側にある三角錐状の巨石の名前に由来します。