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 今日は、1885年(明治18)に、明治時代後期から昭和時代前期に活躍した詩人・歌人である平野万里(ひらのばんり)が生まれた日です。
 北原白秋や木下杢太郎と同じ年、埼玉県北足立郡大門町(現在のさいたま市緑区)に生まれましたが、本名は平野久保(ひさやす)です。
 1890年(明治23)一家で上京し、駒本尋常高等小学校を経て、郁文館中学に入学しました。1901年(明治34)ころには新詩社に入り与謝野寛(鉄幹)に師事、旧制第一高校から東京帝国大学へ進みましたが、文芸誌「明星」に短歌・詩・翻訳などを発表するようになりました。
 在学中の1907年(明治40)には、与謝野寛(鉄幹)に連れられ、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇と共に、九州西部中心に約1ヶ月間の長期旅行である「五足の靴」の旅にもいっしょに行くことになります。
 同年、歌集『わかき日』を刊行、翌年大学卒業後は、横浜の会社に就職し、1910年(明治43)からは満鉄中央試験所の技師として大連に赴任しました。
 その後、約3年間のドイツ留学も経験し、帰国後は農商務省技師となって、1938年(昭和13)に退官するまで勤めたのです。
 その間、作歌を中断した時期もありますが、のちの『明星』の主要なる歌人として活躍しました。途中『明星』を離れた者が少なくない中で、終生『明星』の歌風を守った人です。
 1947年(昭和22)2月10日に61歳で没しています。
 以下に、歌集『わかき日』より5首引用しておきます。
 
 子安貝底つ岩根の新室に波の音きく春は來りぬ。
 君と入り、あらむ千年の火の室とエトナの山はむらさきにして。
 薔薇いろの靄のやうなる昼の雨降るを思ひて傘を賜ひぬ。
 月ふけて桜は夜眼に白かりき、初めて君を吸ひし日思ふ。
 秋の野の薄の如くギオリンの弓こそなびけ、楽の風吹く。

☆「五足の靴」とは
 明治時代後期の1907年(明治40)7月28日から8月27日まで、九州西部中心に約1ヶ月間の長期旅行をした、5人(与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里--五足の靴としゃれている)による紀行文です。その年の「東京二六新聞」に旅程より10日ほど遅れて8月7日より9月10日まで、5人が交互に執筆して、29回にわたり連載されました。いろいろな所に立ち寄っていますが、特に、天草下島西海岸の富岡より大江まで約32劼鯏綿發嚢圓部分が印象的です。一行は、平戸、長崎、島原、天草などでキリシタン史遺跡に立ち寄り、戦国時代から苦難を乗り越えてきたキリシタン信仰に思いを馳せました。その後、これら若き詩人・歌人の開眼に大きな役割を果たしたと言われ、白秋の『邪宗門』、『天草雑歌』、杢太郎の『天草組』は、この旅に想を得て誕生した詩です。尚、新聞連載時の執筆者は匿名で、表題には「五人づれ」、文中では与謝野寛(鉄幹)は「K生」、北原白秋は「H生」、木下杢太郎は「M生」、吉井勇は「I生」、平野万里は「B生」の仮名を用いています。