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 今日は、明治時代前期の1886年(明治19)に高村(旧姓長沼)智恵子が生誕した日です。
 千恵子は、福島県安達郡油井村(現在の二本松市油井)の斎藤今朝吉とせんの長女として生まれましたが、後に父が長沼家に養子に入り長沼姓となりました。長沼家は酒造業を営む資産家で、智恵子は福島高等女学校卒業後、日本女子大学校へと進んだのです。
 在学中に絵を描くようになり、卒後、太平洋画会研究所で絵画を学び、1911年(明治44)9月創刊の雑誌『青鞜』の表紙絵を描くまでになりました。その後も絵画を描き続け、絵画展に何度か出品したりしている内に、彫刻家・詩人の高村光太郎と知り合います。
 1914年(大正3)から光太郎との同棲を始めましたが、父の死や長沼家の破産・一家離散などもあり、心労が重なって、自殺未遂事件も起こしました。1933年(昭和8)8月23日に光太郎と入籍しますが、統合失調症が悪化し、温泉療養などを経て、1935年(昭和10)2月に東京のゼームス坂病院に入院することになったのです。病室で紙絵の創作をしたりしていましたが、1938年(昭和13)10月5日、粟粒性肺結核のため、52歳で亡くなりました。
 高村光太郎は智恵子没後3年の1941年(昭和16)に、生前の智恵子を偲んだ詩集『智恵子抄』を発表したことで有名です。この詩集の中には、智恵子を思う気持ちが切々と綴られていて、胸を打ちました。
 生誕地の福島県二本松市には智恵子の生家が保存されており、その裏には「智恵子記念館」も併設され、彼女の油絵や紙絵が展示されています。
 私も何度か見学したことがありますが、智恵子が統合失調症にかかってからは、光太郎と共に東北地方の温泉を巡って、温泉療養を試みたことがわかり、その時に不動湯温泉「白雲荘」や塩原温泉「柏屋旅館」などに湯治していました。高村光太郎と智恵子の夫婦愛について感慨深いものがあり、智恵子が病床で作った紙絵がとても印象的でもあります。
 また、生家の近くにある、詩碑の丘に登って、光太郎と智恵子がよく散策した高台から周辺を望んでみましたが、そこに立っている、「樹下の二人」詩碑に刻まれている『あれが阿多多羅山 あの光るのが阿武隈川...』の光景を目の当たりにしてとても感動しました。阿多多羅山と阿武隈川がとてもよく見えるのです。
 以下に、詩集『智恵子抄』の中の「樹下の二人」を載せておきます。


「樹下の二人」

――みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ――

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

かうやつて言葉すくなに坐つてゐると、
うつとりねむるやうな頭の中に、
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
この大きな冬のはじめの野山の中に、
あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、
下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう。

あなたは不思議な仙丹を魂の壺にくゆらせて、
ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
無限の境に烟るものこそ、
こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
むしろ魔もののやうに捉とらへがたい
妙に変幻するものですね。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡つた北国の木の香に満ちた空気を吸はう。
あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
私は又あした遠く去る、
あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
ここはあなたの生れたふるさと、
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
まだ松風が吹いてゐます、
もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

大正一二・三