太平洋戦争末期、1945年(昭和20)6月に沖縄島が陥落し、アメリカ軍の占領下に置かれることになりました。戦後、1952年(昭和27)の日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)で、日本は占領下から脱したものの、沖縄や奄美、小笠原は引き続き、アメリカ合衆国の施政権下に置かれるものとされたのです。この施政権下では、日本とは違う通貨(B円→米ドル)が使われ、車は右通行、日本本土から沖縄へ行くのにはパスポートが必要など、アメリカ流の施策が行われてきました。「行政主席」(当初は米国民政府による直接任命)を行政の長とする琉球政府を置き、公選の議員で構成される立法機関「立法院」を設けるなど一定の自治を認めたものの、最終的な意思決定権はアメリカが握ったままでした。この中で、アメリカ軍は沖縄各地に半ば力ずくで基地や施設を建設し、またアメリカ軍兵士による重大事件が頻発し、県民の被害者も相次ぐことになります。これに対し、県民有志は「島ぐるみ闘争」といった抵抗運動を起こし、1960年(昭和35)には沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)を結成したのです。その後、沖縄住民の祖国復帰運動がねばり強く続けられ、1968年(昭和43)には、屋良朝苗氏を初の公選主席に当選させるほどに運動は高揚し、1971年(昭和46)6月17日に「沖縄返還協定」の調印、1972年(昭和47)5月15日の施政権返還というかたちで、沖縄の本土復帰が実現することになりました。
「沖縄返還協定」は、昭和時代後期の1971年(昭和46)6月17日に、宇宙中継を通じて東京とワシントン D.C.で署名された、日本とアメリカ合衆国との条約です。この条約は、1969年(昭和44)11月、ワシントンにて佐藤栄作内閣総理大臣と、リチャード・ニクソンアメリカ合衆国大統領との会談後発表された共同声明に基づいて、交渉を行ない合意に達したものでした。正式には「琉球諸島および大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」といい、翌年の5月15日に、批准書が交換されて、発効したのです。前文と本文9ヶ条から成り、その内容は、前文で「サンフランシスコ平和条約」第3条の規定に基づくすべての権利及び利益を日本国のために放棄するとし、本文では、(1)沖縄の施政権の返還についての確認、(2)アメリカ合衆国との間に締結された条約及びその他の協定の適用の確認、(3)アメリカ軍基地の存続についての確認、(4)アメリカ軍や政府に対する請求権の放棄等について、(5)裁判、訴訟等の効力について、(6)日本政府に移転する沖縄の財産について、(7)総額3億2千万ドルをアメリカ政府に支払う、(8)5年間にわたり沖縄島におけるヴォイス・オヴ・アメリカ中継局の運営を継続すること、(9)批准書の交換についてを規定していました。この協定発効後、沖縄の施政権が返還され、沖縄県が復活しました。
しかし、その内容は沖縄住民の要求とはかけはなれたもので、今でも県内に多くのアメリカ軍基地(県全体面積の1割強)が残され、基地騒音やアメリカ兵による犯罪などいろいろな問題が表面化しています。その上、県民多数の反対にもかかわらず、政府は名護市辺野古への基地建設を強行していて、重大な局面になっています。今までの沖縄県の苦渋の歴史を考えると、できるだけ基地負担を軽減し、平和を守っていく道を求めていくべきではないでしょうか。
沖縄県最北端の辺戸岬には、沖縄県祖国復帰協議会が建てた祖国復帰闘争碑があり、現地に行ったことがありますが、はるか日本本土を臨んで、祖国復帰の日を待ち望んでいた沖縄の人々の気持ちが伝わってくるようでした。