
川端茅舎(かわばた ぼうしゃ)は、明治時代後期の1897年(明治30)8月17日に、東京市日本橋区蠣殼町(現在の東京都中央区日本橋人形町)において、紀州藩の下級武士だった父・川端信吉の子として生まれましたが、本名は信一(のぶかず)と言いました。1903年(明治36)に、私立有隣代用小学校へ入れられ、1909年(明治42)には、獨逸学協会学校(後の獨協中学校)へ入学します。在学中より句作を始め、1914年(大正3)に中学を卒業した頃から、自らの俳号を「茅舎」と名乗り始めます。1915年(大正4)に「ホトトギス」に初入選、1919年(大正10)に岸田劉生の画学生となり、1922年(大正13)には、洋画を春陽会に出品して2点入選しました。1924年(大正15)に「ホトトギス」雑詠欄の巻頭を得、1931年(昭和3)には、脊椎カリエスのため画業を断念します。1932年(昭和4)の岸田劉生死後は、病弱のためもあって句作に専念し、1933年(昭和5)には、傑作「露」が「ホトトギス」の巻頭句になりました。1934年(昭和9)に「ホトトギス」の同人となり、第1句集『川端茅舎句集』を刊行、1939年(昭和11)には、第2句集『華厳』を刊行しました。格調高雅な美的境地の句風を示し、高浜虚子から「花鳥諷詠真骨頂漢」の称を与えられたりしたものの、1941年(昭和16)7月17日に、東京市大森区桐里町(現在の大田区池上)の自宅において、肺患の悪化により、43歳で亡くなっています。
<代表的な句>
・「金剛の 露ひとつぶや 石の上」(川端茅舎句集)
・「一枚の 餅のごとくに 雪残る」
・「ぜんまいの のの字ばかりの 寂光土」
・「約束の 寒の土筆を 煮て下さい」
・「咳き込めば 我火の玉の ごとくなり」
・「朴散華 即ちしれぬ 行方かな」
〇川端茅舎の主要な著書
・第1句集『川端茅舎句集』 (1934年)
・第2句集『華厳』(1939年)
・『春水光輪』(1940年)
・『白痴』(1941年)
☆川端茅舎関係略年表
・1897年(明治30)8月17日 東京市日本橋区蠣殼町(現在の東京都中央区日本橋人形町)において、紀州藩の下級武士だった父・川端信吉の子として生まれる
・1903年(明治36) 私立有隣代用小学校へ入れられる
・1909年(明治42) 獨逸学協会学校(のちの獨協中学校)へ入学する
・1914年(大正3) 独逸協会学校中学を卒業、この頃から、自らの俳号を「茅舎」と名乗り始める
・1915年(大正4) 「ホトトギス」に初入選する
・1919年(大正10) 岸田劉生の画学生となる
・1922年(大正13) 洋画を春陽会に出品して2点入選する
・1924年(大正15) 「ホトトギス」雑詠欄の巻頭を得る
・1931年(昭和3) 脊椎カリエスのため画業を断念する
・1932年(昭和4) 岸田劉生死後は、病弱のためもあって句作に専念する
・1933年(昭和5) 傑作「露」が「ホトトギス」の巻頭句になる
・1934年(昭和9) 「ホトトギス」の同人となり、第1句集『川端茅舎句集』を刊行する
・1939年(昭和11) 第2句集『華厳』を刊行する
・1941年(昭和16)7月17日 大森区桐里町(現在の大田区池上)の自宅において、肺患の悪化により、43歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1180年(治承4) | 伊豆に流されていた源頼朝が、以仁王の令旨を受けて挙兵し、山木館を襲撃する(新暦9月8日) | 詳細 |
1691年(元禄4) | 経世家・陽明学者熊沢蕃山の命日(新暦9月9日) | 詳細 |
1943年(昭和18) | 「第2次食糧増産対策要綱」が閣議決定される | 詳細 |
1945年(昭和20) | 小説家島木健作の命日 | 詳細 |
1949年(昭和24) | 国鉄東北本線の旅客列車が福島県内で転覆させられる事故(松川事件)が起こる | 詳細 |
1963年(昭和38) | みどり丸沈没事故が起き、死者・行方不明者112名を出す | 詳細 |
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