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 今日は、江戸時代中期の1689年(元禄2)に、松尾芭蕉が『更科紀行』の旅に出発した日ですが、新暦では9月5日となります。
 『更科紀行』(さらしなきこう)は、江戸時代中期に俳聖と呼ばれた松尾芭蕉が書いた紀行文でした。1689年(元禄2)の8月11日(新暦では9月5日)に、門人の越智越人(えつじん)と山本荷兮(かけい)の下僕を連れて、名古屋から木曽路を通り、8月15日夜、更科に到着して姨捨山の名月を見て、善光寺より碓氷峠を経て8月下旬、江戸へと帰着します。1688~89年(元祿元~2年)に成立し、1709年(宝永6)に『笈の小文』の付録として刊行され、文末に芭蕉と越人の句が一括して収められました。尚、芭蕉自筆の『更科紀行』(沖森文庫本)は、国指定重要文化財(三重県伊賀市所蔵)になっています。
 
<収載されている代表的な句>
・「俤や 姥ひとりなく 月の友」
・「桟や まづおもひいづ 駒むかへ」
・「木曾の橡 うき世の人の 土産かな」 
・「送られつ 別れつ果は 木曽の秋」

〇『更科紀行』の冒頭部分

さらしなの里、 姨捨山の月見んこと、しきりにすゝむる秋風の心に吹さわぎて、ともに風雲の情を狂すもの又ひとり、越人と云。木曾路は山深く道さがしく、旅寐の力も心もとなしと、荷兮子が奴僕をして送らす。おのおの心ざし尽すといへども、羇旅の事心得ぬさまにて、ともにおぼつかなく、ものごとのしどろにあとさきなるも、なかなかにおかしき事のみ多し。
何々と云いふ所にて、六十ばかりの道心の僧、おもしろげもおかしげもあらず、ただむつむつとしたるが、腰たわむまで物おひ、息はせはしく、足はきざむやうにあゆみ来れるを、ともなひける人のあはれがりて、おのおの肩にかけたるもの共ども、かの僧のおひね物ものとひとつにからみて、馬に付けて、我をそ上にのす。

     紀行文『更科紀行』 松尾芭蕉著より

☆松尾芭蕉(まつお ばしょう)とは?

 俳諧文学の第一人者・俳聖です。江戸時代前期の1644年(寛永21)に、伊賀国上野(現在の三重県伊賀市)において(伊賀国柘植出生説あり)、士分待遇の農家の松尾与左衛門の子として生まれましたが、幼名は金作、本名は宗房と言いました。
 若年にして、伊賀上野の藤堂藩伊賀支城付の侍大将家の嫡子藤堂良忠(俳号蟬吟)の近習となり、良忠と共に北村季吟に俳諧を学びます。1666年(寛文6)に良忠の死とともに仕官を退き、兄の家に戻って、俳諧に精進しました。
 1672年(寛文12)に郷里の天満宮に句合『貝おほひ』を奉納、延宝初年には江戸に出て上水道工事に携わったりしますが、談林派の感化を受けつつ、俳諧師の道を歩むようになります。1680年(延宝8)には、『桃青門弟独吟二十歌仙』を刊行するにおよび、俳壇内に地盤を形成し、深川の芭蕉庵で隠逸生活に入った頃から、独自の蕉風を開拓し始めました。
 1684年(貞享元)以後は、『野ざらし紀行』(1685~86年頃)、『鹿島詣』(1687年)、『笈の小文』、『更科紀行』(1688年)に書かれたように諸国を行脚するようになります。1689年(元禄2)には、もっとも著名な『おくのほそ道』の旅に弟子の河合曾良を伴って出て、東北・北陸地方を回りました。
 そして、最後に西へ向かって旅立ち、大坂の南御堂で門人に囲まれて、1694年(元禄7年10月12日)に、数え年51歳で息を引き取ったと伝えられています。まさに旅に生き、旅に死するの境地で、辞世の句も「旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る」というものでした。
 弟子も多く、死後は蕉門の十哲(榎本其角・服部嵐雪・各務支考・森川許六・向井去来・内藤丈草・志太野坡・越智越人・立花北枝・杉山杉風)などによって、蕉風俳諧が広められます。

<代表的な句>
・「古池や 蛙飛びこむ 水の音」
・「野ざらしを 心に風の しむ身哉」
・「夏草や 兵どもが 夢の跡」
・「荒海や 佐渡によこたふ 天河」
・「五月雨をあつめて早し 最上川」

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