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 今日は、昭和時代中期の1949年(昭和24)に、今井正監督の映画『青い山脈』(原作:石坂洋次郎)が封切られた日です。
 『青い山脈』(あおいさんみゃく)は、昭和時代中期の1947年(昭和22)6~10月に「朝日新聞」に連載され、同年12月に新潮社より刊行された石坂洋次郎著のベストセラー小説です。太平洋戦争後間もない地方の町を舞台に、高校生らの男女交際などを通して解放された青春の姿を明るくユーモラスに描いたものでした。因襲にとらわれた校内の封建的な雰囲気に果敢に取り組む青春像が描かれていて、戦後民主主義の一つの教科書のように受け止められます。
 1949年(昭和24)に、今井正監督・脚色(出演:原節子、龍崎一郎、池部良、杉葉子、若山セツ子、木暮実千代、赤木蘭子ほか)による映画が製作され、作詞:西条八十、作曲:服部良一の主題歌と共に、大ヒットしました。映画は、キネマ旬報ベスト・テン第2位となり、第4回毎日映画コンクール撮影賞、女優演技賞(原節子)、助演賞(木暮実千代)も受賞します。
 その後、1957年(昭和32)に松林宗恵監督(出演、雪村いづみ、司葉子ほか)により、1963年(昭和38)に西河克己監督(出演、吉永小百合、浜田光夫ほか)により、1975年(昭和50)に河崎義祐監督(出演、三浦友和、片平なぎさほか)により三度映画化されました。

〇今井正(いまい ただし)とは?

 昭和から平成時代に活躍した映画監督です。明治時代後期の1912年(明治45)1月8日に、東京府豊多摩郡渋谷町(現在の東京都渋谷区広尾)の祥雲寺の中にある霊泉院住職であった父・六助と母・カネの長男として生まれました。
 1929年(昭和4)に旧制芝中学校を卒業し、旧制水戸高等学校に入学しましたが、翌年に学生運動により特高警察に連行され、1年間の停学処分を受けます。1933年(昭和8)に東京帝国大学文学部美術史科に入学したものの、再び学生運動により本富士警察署に検挙され、翌年に1年間の停学処分を受けました。
 1935年(昭和10)に大学を中退、京都のJOスタジオに助監督として入社、1937年(昭和12年)には、J.O.スタヂオは合併で東宝映画京都撮影所となります。1939年(昭和14)に東宝の『沼津兵学校』で監督デビューし、『多甚古村』 (1940年) 、『閣下』 (1940年) などを作り、中堅作家の地位を固めました。
 太平洋戦争後、1946年(昭和21)に戦後第1作『民衆の敵』を監督、1949年(昭和24)には、石坂洋次郎原作の青春映画『青い山脈』前後篇を監督、大ヒットしましたが、東宝を退社しフリーとなります。1950年(昭和25)に『また逢う日まで』を監督、ブルーリボン賞監督賞・作品賞、キネマ旬報ベストテン第1位など高い評価を得たものの、東宝争議では組合側に加担したためレッド・パージの対象となりました。
 1951年(昭和26)に独立プロに転じ、山本薩夫・亀井文夫らの新星映画社で『どっこい生きてる』を監督、1953年(昭和28)には、沖縄戦の悲劇を描く『ひめゆりの塔』を東映で撮り、大ヒットとなります。1957年(昭和32)の『純愛物語』で、毎日映画コンクール監督賞、第8回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)、1963年(昭和38)の『武士道残酷物語』で、第13回ベルリン国際映画祭で金熊賞 (グランプリ)と国際的にも評価されました。
 その後も、1967年(昭和42)に渥美清主演のテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』シリーズで(4本演出)、未解放部落を正面から描いた『橋のない川第一部・第二部』(1969・1970年)、『婉という女』(1971年)、『あにいもうと』(1976年)などの佳作、力作を次々と発表、ヒューマニズムを基調とした作風が特徴とされます。しかし、1982年(昭和57)に胃癌のため稲城市立病院に入院して手術を受け、引退宣言し、1986年(昭和61)には白内障と緑内障で両目を手術し、左眼を失明しました。
 1990年(平成2)に第8回日本映画復興賞特別賞を受賞、翌年には14年ぶりに映画『戦争と青春』を撮りましたが、同年11月22日に埼玉県草加市の草加市立病院において、くも膜下出血のため79歳で亡くなっています。

〇石坂洋二郎(いしざか ようじろう)とは?

 昭和時代に活躍した小説家です。明治時代後期の1900年(明治33)1月25日に、青森県弘前市代官町で生まれました。
 弘前市立朝陽小学校を経て、1913年(大正2)に青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校)に入学します。在学中は、小説をよく読み、少年雑誌に投書したりして卒業し、1919年(大正8)に上京して、慶應義塾大学文学部予科に入学しました。
 1925年(大正14)に慶應義塾大学文学部国文科を卒業した後、青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)に勤務、翌1926年(昭和元)から秋田県立横手高等女学校(現在の秋田県立横手城南高等学校)に変わりました。1927年(昭和2)『三田文学』に掲載された処女作「海をみに行く」、「炉辺夜話」で注目されるようになります。
 1929年(昭和4)に秋田県立横手中学校(現在の秋田県立横手高等学校)に移り、1933年(昭和8)から『三田文学』に連載された「若い人」が評判となり、1936年(昭和11)に第1回三田文学賞を受賞しました。翌年に本が出版されると、たちまちベストセラーになって映画化もされましたが、右翼団体の圧力をうけ、1938年(昭和13)に教員を辞職、上京して作家活動に専念し、『何処(いずこ)へ』(1941年)などを書きます。
 戦時中は陸軍報道班員として、フィリピンに派遣されたりしましたが、太平洋戦争後は、『青い山脈』(1947年)、『石中先生行状記』(1948~54年)などを書いて、ベストセラー作家となりました。その後も、『あじさいの歌』(1958~59年)、『河のほとり』(1961年)、『光る海』(1963年)などの新聞小説を連載し、1966年(昭和41)には、第14回菊池寛賞を受けます。
 独特のユーモアと健康で明るい庶民感覚のあふれた作品が多く、大衆に愛されて、映画化・テレビドラマ化された作品も多くありましたが、1986年(昭和61)10月7日に、静岡県伊東市の自宅において、86歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

931年(承平元)第59代の天皇とされる宇多天皇の命日(新暦9月3日)詳細
1107年(嘉承2)第73代の天皇とされる堀河天皇の命日(新暦8月9日)詳細
1829年(文政12)国学者・旅行家菅江真澄の命日(新暦8月18日)詳細
1864年(元治元)京都で蛤御門の変(禁門の変)が起きる(新暦8月20日)詳細
1888年(明治21)剣術家・政治家山岡鉄舟の命日詳細
1940年(昭和15)近衛文麿の東京の私邸(荻外荘)に於いて、荻窪会談が開催される詳細
1944年(昭和19)文部・厚生・軍需3省次官指令「学徒勤労ノ徹底強化ニ関スル件」が出され、学徒勤労動員が強化される詳細