
井上光晴(いのうえ みつはる)は、大正時代の1926年(大正15)5月15日に、福岡県久留米市でにおいて、職人だった父・井上雪雄と母・たか子の長男として生まれましたが、4歳の時に、母が家出し、7歳の時に、祖母に連れられ軍港・佐世保に住み着きました。12歳の時に、佐世保の沖・崎戸炭鉱へと移って働き、16歳の時に、専検(専門学校入学者検定試験)に合格し、上京して陸軍の電波兵器技術養成所に入ります。
1945年(昭和20)に電波兵器技術養成所を卒業後、多摩陸軍技術研究所勤務しましたが、敗戦後、日本共産党長崎地方委員会の創設に参加しました。1947年(昭和22)にガリ版詩集『むぎ』、翌年には、大場康二郎との共著詩集『すばらしき人間群』を刊行、1949年(昭和24)には、日本共産党九州地方常任委員などを務めます。
1950年(昭和25)に『書かれざる一章』を「新日本文学」に発表して作家デビューをしましたが、1953年(昭和28)に日本共産党を離党し、1955年(昭和30)に上京して、「週刊新潮」記者等となりました。1958年(昭和33)に吉本隆明や奥野健男らと「現代批評」というグループを結成、創作活動に専念し、1960年(昭和35)に「現代批評」に、『虚構のクレーン』を発表、1963年(昭和38)には、原爆被爆者に焦点をあてた『地の群れ』を発表し、作家としての地位を確立します。
1969年(昭和44)に新日本文学会を退会し、1970年(昭和45)に季刊誌「辺境」を個人編集、1977年(昭和52)には、「文学伝習所」第一期を佐世保にて開講し、以後九州や北海道はじめ、山形、群馬、新潟、長野など各地で開講して後進の育成に力を注ぎました。1979年(昭和54)に野間宏らと「使者」を創刊、1984年(昭和59)に「文学伝習所」を函館にも開設し、「函館文学」を刊行、1989年(平成元)には、文芸誌「兄弟」が創刊されます。1992年(平成4)5月30日に、東京都調布市において、大腸癌により、66歳で亡くなっています。
1945年(昭和20)に電波兵器技術養成所を卒業後、多摩陸軍技術研究所勤務しましたが、敗戦後、日本共産党長崎地方委員会の創設に参加しました。1947年(昭和22)にガリ版詩集『むぎ』、翌年には、大場康二郎との共著詩集『すばらしき人間群』を刊行、1949年(昭和24)には、日本共産党九州地方常任委員などを務めます。
1950年(昭和25)に『書かれざる一章』を「新日本文学」に発表して作家デビューをしましたが、1953年(昭和28)に日本共産党を離党し、1955年(昭和30)に上京して、「週刊新潮」記者等となりました。1958年(昭和33)に吉本隆明や奥野健男らと「現代批評」というグループを結成、創作活動に専念し、1960年(昭和35)に「現代批評」に、『虚構のクレーン』を発表、1963年(昭和38)には、原爆被爆者に焦点をあてた『地の群れ』を発表し、作家としての地位を確立します。
1969年(昭和44)に新日本文学会を退会し、1970年(昭和45)に季刊誌「辺境」を個人編集、1977年(昭和52)には、「文学伝習所」第一期を佐世保にて開講し、以後九州や北海道はじめ、山形、群馬、新潟、長野など各地で開講して後進の育成に力を注ぎました。1979年(昭和54)に野間宏らと「使者」を創刊、1984年(昭和59)に「文学伝習所」を函館にも開設し、「函館文学」を刊行、1989年(平成元)には、文芸誌「兄弟」が創刊されます。1992年(平成4)5月30日に、東京都調布市において、大腸癌により、66歳で亡くなっています。
〇井上光晴の主要な著作
・『書かれざる一章』(1950年)
・『病める部分』(1951年)
・『双頭の鷲(わし)』(1952年)
・『長靴島』(1953年)
・長編小説『虚構のクレーン』(1960年)
・『地の群れ』(1963年)
・『他国の死』(1965年)
・『赤い手毱(てまり)』(1966年)
・小説『黒い森林』(1967年)
・『心優しき叛逆者(はんぎゃくしゃ)たち』(1973年)
・時代小説『丸山蘭水楼の遊女たち』(1976年)
・『井上光晴詩集』(1976年)
・長編小説『憑(つ)かれた人』(1981年)
・『西海原子力発電所』(1986年)
・長編『地下水道』(1987年)
・作品集『サラダキャンプ、北へ』(1987年)
・『虫』(1988年)
・『暗い人』第1部・第2部・第3部(1988年・1989年・1991年)
・『輸送』(1989年)
・『十八歳の詩集』(1998年)
☆井上光晴関係略年表
・1926年(大正15)5月15日 福岡県久留米市でにおいて、職人だった父・井上雪雄と母・たか子の長男として生まれる
・1830年(昭和5) 4歳の時に、母が家出する
・1933年(昭和8) 7歳の時に、祖母に連れられ軍港・佐世保に住み着く
・1938年(昭和13) 12歳の時に、佐世保の沖・崎戸炭鉱へと移って働く
・1942年(昭和17) 16歳の時、専検(専門学校入学者検定試験)に合格し、上京して陸軍の電波兵器技術養成所に入る
・1945年(昭和20) 電波兵器技術養成所を卒業後、多摩陸軍技術研究所勤務、敗戦後、日本共産党長崎地方委員会の創設に参加する
・1947年(昭和22) ガリ版詩集『むぎ』を刊行する
・1948年(昭和23) 大場康二郎との共著詩集『すばらしき人間群』を刊行する
・1949年(昭和24) 日本共産党九州地方常任委員などを務める
・1950年(昭和25) 『書かれざる一章』を「新日本文学」に発表して作家デビューをする
・1953年(昭和28) 日本共産党を離党する
・1955年(昭和30) 上京し、「週刊新潮」記者となる
・1958年(昭和33) 吉本隆明や奥野健男らと「現代批評」というグループを結成、創作活動に専念する
・1960年(昭和35) 「現代批評」に、『虚構のクレーン』を発表する
・1963年(昭和38) 原爆被爆者に焦点をあてた『地の群れ』を発表し、作家としての地位を確立する
・1969年(昭和44) 新日本文学会を退会する
・1970年(昭和45) 季刊誌「辺境」を個人編集する
・1977年(昭和52) 「文学伝習所」第一期を佐世保にて開講する
・1979年(昭和54) 野間宏らと「使者」を創刊する
・1984年(昭和59) 「文学伝習所」を函館に開設し、「函館文学」を刊行する
・1989年(平成元) 文芸誌「兄弟」が創刊される
コメント