
近衛天皇(このえてんのう)は、平安時代後期の1139年(保延5年5月18日)に、鳥羽天皇の第9皇子(母は藤原長実の娘美福門院得子)として生まれましたが、生後三ヶ月で立太子しました。1142年(永治元年12月7日)の3歳の時、異母兄崇徳天皇の譲位をうけ、第76代とされる天皇として即位したものの、父・鳥羽天皇が院政を敷きます。
1150年(久安6年)に、12歳で元服し、内覧・藤原頼長の養女の多子が入内して皇后となる一方で、関白・藤原忠通の養女の呈子も入内して、中宮となりました。これにより、摂関家の内部対立が深まり、保元の乱の遠因となったとされます。
1153年(仁平3年)の15歳の頃から著しく病気がちであり、一時失明の危機に陥り、譲位の意思を関白・忠通に告げました。しかし、1155年(久寿2年7月23日)に京都において、御所としていた近衛殿で、皇子女のないままに、数え年17歳で夭折しています。
墓所は安楽寿院南陵(京都市伏見区)とされましたが、死因は呪詛によるとの噂が流れました。尚、和歌を能くし、「千載和歌集」初出で、勅撰集へ五首入集しています。
1150年(久安6年)に、12歳で元服し、内覧・藤原頼長の養女の多子が入内して皇后となる一方で、関白・藤原忠通の養女の呈子も入内して、中宮となりました。これにより、摂関家の内部対立が深まり、保元の乱の遠因となったとされます。
1153年(仁平3年)の15歳の頃から著しく病気がちであり、一時失明の危機に陥り、譲位の意思を関白・忠通に告げました。しかし、1155年(久寿2年7月23日)に京都において、御所としていた近衛殿で、皇子女のないままに、数え年17歳で夭折しています。
墓所は安楽寿院南陵(京都市伏見区)とされましたが、死因は呪詛によるとの噂が流れました。尚、和歌を能くし、「千載和歌集」初出で、勅撰集へ五首入集しています。
<代表的な和歌>
・「浮雲の かかる程だに あるものを 隠れなはてそ 有明の月」(千載和歌集)
・「この寝ぬる 夜のまの風や さえぬらむ 筧の水の 今朝はこほれる」(続古今和歌集)
・「虫の音の 弱るのみかは 過ぐる秋を 惜む我が身ぞ まづ消えぬべき」(玉葉和歌集)
〇近衛天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・1139年(保延5年5月18日) 鳥羽天皇の第9皇子(母は藤原長実の娘美福門院得子)として生まれる
・1139年(保延5年8月) 生後三ヶ月で立太子する
・1142年(永治元年12月7日) 3歳の時、異母兄崇徳天皇の譲位をうけ、第76代とされる天皇として即位するが、父・鳥羽天皇が院政を敷く
・1150年(久安6年) 12歳で元服し、内覧・藤原頼長の養女の多子が入内して皇后となる一方で、関白・藤原忠通の養女の呈子も入内して、中宮となる
・1153年(仁平3年) 15歳の頃から著しく病気がちであり、一時失明の危機に陥り、譲位の意思を関白・忠通に告げる
・1155年(久寿2年7月23日) 京都において、数え年17歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1333年(元弘3/正慶2) | 鎌倉幕府第16代執権北条守時が鎌倉小袋坂の戦いで自刃する(新暦6月30日) | 詳細 |
1862年(文久2) | 江戸幕府が蕃書調所を「洋書調所」と改称する(新暦6月15日) | 詳細 |
1869年(明治2) | 榎本武揚らが最後の拠点・五稜郭を開城し維新政府軍に降伏する(新暦6月27日) | 詳細 |
1901年(明治34) | 日本最初の社会主義政党である「社会民主党」が結成される | 詳細 |
1943年(昭和18) | 日本美術報国会(会長横山大観)が結成される | 詳細 |
1970年(昭和45) | 「全国新幹線鉄道整備法」(昭和45年法律第71号)が公布(施行は同年6月18日)される | 詳細 |
1982年(昭和57) | 国連環境計画特別会議で「ナイロビ宣言」が採択される | 詳細 |
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