
間宮林蔵(まみや りんぞう)は、江戸時代後期の探検家・測量家で、1780年(安永9)に、常陸国筑波郡上平柳村(現在の茨城県つくばみらい市)の農業・箍屋に生まれました。子供のころから数学の才能があり、それをを幕吏に認められて、1790年(寛政2)頃江戸に出て、地理学を学ぶことになります。
1796年(寛政8 )普請役雇として幕府に出仕し、1800年(寛政12)蝦夷地の測量を命じられ、箱館で伊能忠敬に出会って測量術を学びました。そして、蝦夷地や択捉島を測量し、幕命により1808年(文化5)樺太に渡って探検し、樺太が島であることを確認し、間宮海峡の命名に繋がっています。
晩年は、密貿易調査の隠密活動に従事しましたが、1844年(弘化元)に70歳で死去ししました。主な著書は『東韃紀行』、『北蝦夷図説』、『銅柱余録』などがあります。
現在、出身地の茨城県つくばみらい市に「間宮林蔵記念館」が建てられ、遺品や事績を知ることができるようになりました。
1796年(寛政8 )普請役雇として幕府に出仕し、1800年(寛政12)蝦夷地の測量を命じられ、箱館で伊能忠敬に出会って測量術を学びました。そして、蝦夷地や択捉島を測量し、幕命により1808年(文化5)樺太に渡って探検し、樺太が島であることを確認し、間宮海峡の命名に繋がっています。
晩年は、密貿易調査の隠密活動に従事しましたが、1844年(弘化元)に70歳で死去ししました。主な著書は『東韃紀行』、『北蝦夷図説』、『銅柱余録』などがあります。
現在、出身地の茨城県つくばみらい市に「間宮林蔵記念館」が建てられ、遺品や事績を知ることができるようになりました。
〇間宮林蔵関係略年表(日付は旧暦です)
・1780年(安永9年) 常陸国筑波郡上手柳村(現在のつくば市)の農家を営む父・間宮庄兵衛と母・(森田)クマの子として生まれる
・1790年(寛政2年) この頃、江戸に出て、地理学を学ぶ
・1796年(寛政8年) 普請役雇として幕府に出仕する
・1799年(寛政11年) 20歳の時、村上島之允に随行し蝦夷地(北海道)に渡る
・1800年(寛政12年) 21歳の時、蝦夷地御用雇に任ぜられる
・1806年(文化3年) 択捉(えとろふ)を測量する
・1808年(文化5年) 29歳の時、カラフト探検を命ぜられ、松田伝十郎と共に北上し、6月20日ラッカに至り、カラフトの離島を確認する
・1809年(文化6年) 30歳の時 再度カラフト探検を命ぜられ北上、5月カラフトの北端ナニオーに至り、カラフトが離島であることを再確認する、6月アイヌのコーニらに同行し、海峡を渡り東韃靼に至り、デレンで満州仮府の役人と会う
・1810年(文化7年) 31歳の時、村上貞助の協力で、「北蝦夷島地図」、「北蝦夷分界余話」、「東韃地方紀行」を著す
・1814年(文化11年) 35歳の時、蝦夷地測量をする
・1822年(文政5年) 43歳の時、松前奉行廃止、江戸に帰り普請役となる
・1824年(文政7年) 45歳の時、安房上総御前備掛手付となり,異国船渡来の噂を内偵のため、東北海岸を巡視する
・1826年(文政9年) 47歳の時、天文方兼書物奉行高橋景保がシーボルトに対し、クルーゼンシュテルンの航海記と交換に、伊能忠敬の日本地図、間宮林蔵のカラフト地図を贈ることを約束する
・1832年(天保3年) 53歳の時、シーボルト著「日本」で日本辺界略図」の翻訳図に「間宮の瀬戸」の名を始めてヨーロッパに紹介される
・1842年(天保13年) 63歳の時、幕府、林蔵にカラフトおよび東韃靼地域の自製図模写を命ずる
・1844年(天保15年2月26日) 江戸本所外手町の寓居において、数え年65歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
717年(養老元) | 浮浪・逃亡が増え、「諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出に関する詔」が出される(新暦6月30日) | 詳細 |
1641年(寛永18) | 江戸幕府が平戸のオランダ人を長崎の出島に移住させる(新暦6月25日) | 詳細 |
1875年(明治8) | 最初の屯田兵が北海道の琴似(現在の札幌市西区)に入植する | 詳細 |
1890年(明治23) | 「府縣制」(明治23年法律第35号)が公布される | 詳細 |
「郡制」(明治23年法律第36号)が公布される | 詳細 | |
1946年(昭和21) | GHQから「肥料の生産、分配及び使用に関する覚書」(SCAPIN-962)が指令される | 詳細 |
1965年(昭和40) | 労働者の結社の自由・団結権の保護を定めた「ILO87号条約」を国内で承認する | 詳細 |
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