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 今日は、昭和時代後期の1974年(昭和49)に、古河鉱業が被害者971人に補償金15億5,000万円を支払う調停案に双方が受諾し、足尾鉱毒事件が80年ぶりに決着した日です。
 足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)は、明治時代前期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山を原因とする公害事件です。銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1885年(明治18)には渡良瀬川における魚類の大量死が始まりました。
 1890年(明治23)7月1日の渡良瀬川での大洪水では、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなります。この頃より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起し、1896年(明治29)には、有志と共に雲龍寺に栃木群馬両県鉱毒事務所が設けられました。
 1900年(明治33)2月、鉱毒被害民が集結し、請願のため上京する途中、警官隊と衝突した川俣事件がおこり、農民67名が逮捕されましたが、この事件の2日後と4日後、正造は国会で事件に関する質問を行っています。1901年(明治34)に正造は衆議院議員を辞職し、明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴も試みました。
 1902年(明治35)、時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立て、紆余曲折を経て、谷中村に遊水地がつくられることになります。しかし、この村の将来に危機を感じた正造は、1904年(明治37)から実質的に谷中村に移り住み、村民と共に反対運動に取り組みました。
 1907年(明治40)に政府は「土地収用法」の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出ることとなります。その後も、正造を含む一部村民が残って、抵抗を続けたものの、1913年(大正2)に正造は71歳で没し、運動は途切れることになりました。
 以後も足尾銅山は1973年(昭和48)の閉山まで、精錬所は1980年代まで稼働し続けます。その中で、1971年(昭和46)に、群馬県毛里田地区産出米からカドミウムを検出、1972年(昭和47)に、毛里田同盟会(第2代会長・板橋明治)が政府の中央公害審査会(のちに公害等調整委員会に改組)に、損害賠償を求める調停を申請しました。
 その結果、1974年(昭和49)5月11日には、毛里田同盟会と古河、第12回調定で農作物減収補償調停が成立して調印し、損害賠償額は15億5,000万円となります。それからも、2011年(平成23)に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、現在でも影響が残されてきました。

〇足尾銅山】(あしおどうざん)とは?

 栃木県上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)にあった銅山です。室町時代に発見されたと伝えられていますが、江戸時代に幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることになりました。
 銅山は大いに繁栄し、江戸時代のピーク時には、年間1,200トンもの銅を産出していたとのことです。その後、採掘量が減少し、幕末から明治時代初期にかけては、ほぼ閉山状態となっていました。
 しかし、1877年(明治10)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手し、数年後に有望鉱脈が発見され、生産量が増大します。1905年(明治38)に古河鉱業の経営となり、急速な発展を遂げ、20世紀初頭には日本の銅産出量の約40%の生産を上げるまでになりました。
 ところが、この鉱山開発と製錬事業の発展のために、周辺の山地から坑木・燃料用として、樹木が大量伐採され、製錬工場から排出される大気汚染による環境汚染が広がることになります。禿山となった山地を水源とする渡良瀬川は、度々洪水を起こし、製錬による有害廃棄物を流出し、下流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、足尾鉱毒事件を引き起こしました。
 1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起をして、鉱毒事件の闘いの先頭に立ったことは有名です。1973年(昭和48)2月28日で閉山しましたが、今でも銅山跡周辺に禿山が目立っています。
 その後、1980年(昭和55)に、坑道を使用した足尾町「足尾銅山観光」がオープンしました。尚、2007年(平成19)には、足尾銅山が日本の地質百選に選定され、経済産業省が取りまとめた近代化産業遺産群33に「足尾銅山関連遺産」としても認定されています。さらに、2008年(平成20)には、通洞坑と宇都野火薬庫跡が国の史跡に指定されました。

☆足尾鉱毒事件関係略年表

<1877年(明治10)> 
・古河市兵衛が足尾銅山製錬所を操業する

<1881年(明治14)> 
・足尾銅山、鷹の巣直利を発見する

<1884年(明治17)> 
・横間歩大直利を発見する

<1890年(明治23)>
・8月 渡良瀬川大洪水で、栃木・群馬両県に鉱毒被害が発生する

<1891年(明治24)>
・12月 田中正造が、第2回帝国議会で鉱業停止を要求する

<1892年(明治25)>
・この頃 被害農民と古河の示談契約が進展する

<1893年(明治26)
・第1回示談契約が完結する
・6月30日 足尾銅山、粉鉱採集器を設置、3年間をその試験期間とする

<1895年(明治28)>
・3月 鉱毒被害民と古河市兵衛との間に永久示談契約が進展する

<1896年(明治29)>
・3月25日 正造、第9帝国議会において永久示談の不当性を追及する
・7月~9月 渡良瀬川で、三たび大洪水が起こり、1府5県に鉱毒被害が及ぶ
・10月  正造、有志と雲竜寺に群馬栃木両県鉱毒事務所を設置する

<1897年(明治30)>
・3月2日(~3月5日) 鉱毒被害民が、第1回大挙押出し
・3月20日 谷干城・津田仙・栗原彦三郎、被害地を視察する
・3月23日 農商務大臣榎本武揚、被害地を視察する
・3月23日(~3月30日) 鉱毒被害民、第2回大挙押出し、内閣に足尾銅山鉱毒事件調査委員会が設置される
・5月27日 東京鉱山監督署長、足尾銅山に対して鉱毒除防工事命令をする

<1898年(明治31)>
・4月30日 大蔵省、鉱毒被害民に対して地祖条例による普通荒地免租処分を通達、該当者は公民権を喪失する
・6月30日 大隅重信内閣設立(10月31日、崩壊)する
・9月6日 渡良瀬川の大洪水が起きる
・9月26日 鉱毒被害民、第3回大挙押出し
・9月28日 正造、東京府下南足立郡淵江村保木間において、総代50名を残して帰村するよう説得する

<1899年(明治32)> 
・12月22日 鉱毒議会が結成される

<1900年(明治33)>
・2月13日 未明に被害民が、第4回大挙押出しをし、川俣事件が発生する
・2月14日 正造、第14回議会において川俣事件に関連して政府を追及する
・7月9日 川俣事件で、前橋地方裁判所の予審終結、51名が起訴される
・11月28日 正造、川俣事件第15回公判で、検事論告に憤慨して欠伸をし、官吏侮辱罪に問われる
・12月22日 前橋地方裁判所、川俣事件に判決。被告51名中、有罪29名、無罪22名。検事・被告双方より控訴する

<1901年(明治34)>
・10月13日 川俣事件控訴審での、判事、検事、弁護士らによる被害地臨検が行われる
・10月23日 正造、衆議院議員を辞職する
・11月29日 神田基督教青年会館において鉱毒地救済婦人会発会式(会長・潮田千勢子)が行われる
・12月10日 正造、議会開院式より帰途の天皇に直訴状を提出しようとしてさえぎられ、麹町警察署にて取り調べ、夕刻釈放される
・12月27日 東京学生1100余名が、大挙鉱毒地視察を行う

<1902年(明治35)>
・内務省、秘密裡に栃木県谷中村、埼玉県利島・川辺両村の遊水池計画推進する
・1月 利島・川辺両村に遊水池反対運動起こる
・3月17日 内閣に鉱毒調査委員会が設置される
・6月16日 欠伸事件で有罪確定し、正造は巣鴨監獄に服役する
・9月28日 関東大洪水が起きる
・10月 埼玉県、利根川火打沼の決壊堤防を放置し、川辺・利島両村の買収を計画する
・10月16日 両村民は、自力修復して納税・兵役の義務拒絶を宣言する
・12月25日 川俣事件再審理公判、宮城控訴院にて控訴棄却・公訴不受理により消滅する
 
<1903年(明治36)>
・1月 栃木県議会、遊水池化のための谷中村買収案否決する
・6月3日 政府、鉱毒調査委員会の調査報告書を発表、谷中村瀦水池案浮上する

<1904年(明治37)>
・7月 正造、谷中村問題に専念のため、以後、同村川鍋岩五郎方に寄留する
・12月10日 災害復旧費名の谷中村買収案、栃木県会(秘密会)を通過する

<1905年(明治38)>
・3月24日 原敬、古河鉱業副社長に就任する

<1906年(明治39)>
・6月8日 正造、栃木県知事白仁武より予戒令を受ける
・7月1日 谷中村村長職務管掌鈴木豊三、村会決議を無視して同村を藤岡村に合併する

<1907年(明治40)>
・2月4日 (〜2月7日) 足尾銅山暴動事件が起きる
・6月29日 (〜7月5日) 栃木県、谷中堤内残留民家屋16戸を強制破壊する
・7月29日 谷中堤内地権者、東京救済会の勧告に従い土地収用補償金額裁決不服訴訟を提起する

<1909年(明治42)> 
・9月 渡良瀬川改修案、関係四県の県議会を通過する

<1911年(明治44)> 
・4月 谷中村民16戸137人、北海道サロマベツ原野に移住(第1次)する

<1913年(大正2)> 
・9月4日 田中正造が亡くなる

<1917年(大正6)>  
・2月 谷中残留民、渡良瀬川改修工事にともなう埋立地に移転する

<1921年(大正10)>   
・1月 萱刈り事件が起きる

<1937年(昭和12)>  
・4月 北海道移住した旧谷中村民、帰郷請願書を栃木県知事に提出する

<1947年(昭和22)> 
・9月 渡良瀬川大洪水(カスリン台風)で被害甚大となる

<1956年(昭和31)>  
・2月 足尾銅山、自溶製錬設備が完成する

<1958年(昭和33)> 
・5月 源五郎沢堆積場が決壊し、水田6,000haが鉱毒被害を受ける
・8月 群馬県の三市三郡による渡良瀬川鉱毒根絶期成同盟会(会長・恩田正一)が結成される

<1968年(昭和43)>  
・3月 経済企画庁が、渡良瀬川の流水の水質基準を銅0.06ppmと決定する

<1971年(昭和46)>
・2月 群馬県毛里田地区産出米からカドミウムを検出する

<1972年(昭和47)> 
・3月 毛里田同盟会(第2代会長・板橋明治)政府の中央公害審査会(のちに公害等調整委員会に改組)に、損害賠償を求める調停を申請する
・11月 足尾銅山が、閉山計画を発表する

<1973年(昭和48)>  
・2月 足尾銅山の採掘中止(閉山)、ただし製錬事業は拡大の方針となる

<1974年(昭和49)>  
・5月11日 毛里田同盟会と古河、第12回調定で農作物減収補償調停が成立して調印、損害賠償額は15億5,000万円となる

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