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 今日は、昭和時代前期の1930年(昭和5)に、野呂栄太郎著『日本資本主義発達史』が鉄塔書院より刊行された日です。
 『日本資本主義発達史』(にほんしほんしゅぎはったつし)は、日本における資本主義の生成・発展をマルクス主義の立場から分析した経済書でした。日本における科学的歴史学の先駆をなすものとして、日本の『資本論』とも呼ばれ、日本資本主義発達史研究に大きな影響を与えたとされています。
 主に、明治維新以降の日本資本主義の発展過程とその構造的矛盾の分析に重点が置かれていて、明治維新期のブルジョア革命としての不徹底により、日本帝国主義によって、国内抑圧と中国侵略とを必然化させたのだとしました。これにより、専制的天皇制と地主的土地所有の廃止などを要求するブルジョア民主主義革命の遂行を日本革命の第一義の課題だとしています。
 この考え方は、1932年(昭和7)5月から翌年8月にかけて、野呂が編集人として、岩波書店から刊行され、マルクス主義を体系的に纏めた『日本資本主義発達史講座』(全7巻)に受け継がれました。
 以下に、『日本資本主義発達史』緒言の冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇野呂栄太郎(のろ えいたろう)とは?

 大正時代から昭和時代前期に活躍した経済学者・社会運動家です。明治時代後期の1900年(明治33)4月30日に、北海道夕張郡長沼村(現在の長沼町)で、農場の管理人だった父・野呂市太郎、母・波留の長男として生まれました。
 1907年(明治40)に小学校へ入学しましたが、運動会でのけががもとで破傷風に罹り、2年生の時に右足を膝下から切断しています。1920年(大正9)に私立北海中学校を優秀な成績で卒業、上京して慶応義塾大学経済学部予科へ入学しましたが、肺結核にかかり、一時療養を余儀なくされました。
 その後、野坂参三の指導のもとにマルクス主義を研究、1922年(大正11)に慶応の学生による三田社会問題研究会の結成に参加し、翌年には日本学生連合会の東京連合会委員長となります。1925年(大正14)に小樽軍事教練事件に関わって検挙され、翌年にも学連 (全日本学生社会科学連合会) 事件に連座して、10ヶ月の禁固刑を受けましたが、病気療養のために保釈され、産業労働調査所調査員として勤務しました。
 日本と世界の政治・経済の現状分析および日本資本主義発達史研究に従事し、猪俣津南雄などの日本資本主義論に厳しい批判を行いますが、1929年(昭和4)の四・一六事件で1ヶ月ほど拘束されます。同年にプロレタリア科学研究所創立にも参加、翌年には日本共産党に入党し、『日本資本主義発達史』を刊行しました。
 1932年(昭和7)にマルクス主義を体系的に纏めた『日本資本主義発達史講座』(全7巻)の編集人として発刊に携わり、「講座派」を指導したものの、産業労働調査所が弾圧され事実上の閉鎖に追い込まれています。地下活動に入り、1933年(昭和8)以後、共産党中央委員会責任者として活動していましたが、スパイの手引きで検挙され、1934年(昭和9年)2月19日に品川警察署での拷問により病状が悪化して、数え年33歳の若さで亡くなりました。

〇日本資本主義発達史講座(にほんしほんしゅぎはったつしこうざ)とは?

 昭和時代前期の1932年(昭和7)5月から翌年8月にかけて岩波書店から刊行された、日本の資本主義の歴史・経済・社会・文化の総合的研究書で、全7巻よりなっています。野呂栄太郎の監修のもとに、大塚金之助・山田盛太郎・平野義太郎・服部之総・羽仁五郎・小林良正・風早八十二ら30数名のマルクス主義理論家の執筆により、明治維新およびその後の日本資本主義の発達および現状の諸条件、その特質と矛盾を分析、日本資本主義を初めて総体的に解明することを目指しました。
 政府当局による検閲・発行禁止がしばしば行なわれ、第4回配本は発禁処分を受け、第5回配本以降も検閲当局による削除・改訂を余儀なくされましたが、一応完結しています。その内容を巡って、雑誌『労農』による、向坂逸郎、櫛田民蔵、猪俣津南雄ら(労農派)は、当時の国家権力を「帝国主義的ブルジョアの政治権力」と規定して論陣を張り、それに対し、『日本資本主義発達史講座』に依るメンバーは“講座派”と呼ばれ、資本家地主のブロック権力論に立ち、両者は、戦前の日本資本主義の現状認識をめぐって激しい論争(日本資本主義論争)を繰り広げました。
 これは、当時の社会科学研究者に大きな影響を与え、日本資本主義の現状分析が深化したとされ、太平洋戦争後の学術研究にも影響を与えています。

☆『日本資本主義発達史』緒言の冒頭部分

  緒言

 戦後世界資本主義は、就中ヨーロッパ資本主義は、その発展の第二期における一時的、相対的均衡の時期に至つて、過ぐる大戦中及びその直後の直接的革命の時期において、一旦低下せる生産の水準を、戦前のそれにまで恢復し、さらに一九二七年を轉機として却つてそれを突破するに至り、茲に発展の第三期を開始するに至つた。大戦参加の戦勝国としての政治的利益と中立国としての経済的利益とを併せ享有し得た米国及び日本の著大なる生産増加が、就中、この傾向を一層顕著にしてゐることは言ふまでもない。
 資本主義の生産は、たしかに、単に大戦前の水準を恢復したばかりでなく、今や明かに、それを突破して増加しつゝある。併し乍ら、この生産の顕著なる増大が、直ちに、労働の社会的生産力の発展と正確に一致し、少なくとも略々これと対応するものとさへ即断してはならない。資本主義世界に於ける今日の生産増大が、生産手段並に生産方法の技術的改善による労働の生産力の発達に負ふところあるは、疑ひもなく、真実である。併し乍ら、吾々は、資本主義的トラスト化、カルテル化の急激なる進行によつて、又所謂資本家的合理化の強行によつて逐行せられつゝある生産の増大が、他面においては、却つて巨大なる社会的生産力を破壊し、又労働の生産力の発展を阻止し、停滞せしめつゝあることを知らねばならぬ。それは、巨大なる失業群の急激なる増大により、労働者階級の生活水準の不断の低下によつてのみ可能にせられてゐる。従つて、かくして獲られた生産の増大は、既に国内市場関係において、生産と販路との矛盾を致命的に激化せしめねばならぬ。而も、労働の生産力の向上によるよりも、寧ろ労働の緊張度の増大によつて可能にせられつゝある今日の生産増大においては、個々の商品価値そのものに取り立てて言ふ程の低落のあり得ないことによつてばかりでなく、需要の相対的又は絶対的減少による市場価値低落の傾向に対して独占価格が反作用することによつて、市場価格は需要の減退にも拘はらず、顕著なる低落を見ることがない。この事は、生産と市場との矛盾を弥々激化せしめるばかりでなく、労働者、農民及び小市民の生活苦を益々堪へ難きものとし、彼等の多数を飢餓線に彷徨せしめてゐる。階級的諸対立は激化するばかりである。漸く昂まりつゝある経済闘争の波が、その益々政治闘争化しつゝあることが、これを立証してゐる。そして、これと共に、ブルジョア的階級支配は益々ファシズム化し、社会民主主義者は社会ファシスト化しつゝある。
 (後略)

  ※旧字を新字に直してあります。

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