台湾出兵(たいわんしゅっぺい)は、台湾原住民による日本人漂流民虐殺事件を根拠として、日本が行った清国領台湾への軍隊派遣公道で、「征台の役」、「台湾事件」とも呼ばれてきました。1871年(明治4)10月に、宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難して台湾南部に漂着し、台湾先住民パイワン族に救助を求めたが、逆に集落へ拉致され、遭難者たちは集落から逃走したため、先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し、54名を斬首し、12名は漢人移民により救助されます(宮古島島民遭難事件)。
1872年(明治5)に、琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し、責任追及の出兵を建議し、副島が特命全権大使として日清条約批准書交換のため清に赴いたとき、副使柳原前光をして台湾漂流民の問題を交渉させました。しかし、1873年(明治6)には、再度備中国浅口郡柏島村(現在の岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が発生します。
そこで、1874年(明治7)2月6日に、明治政府が、大久保利通・大隈重信両参議によって提出された「台湾蕃地処分要略」により、台湾出兵を閣議決定しました。参議の大隈重信を台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入りましたが、イギリス、アメリカが強く反対し、政府内でも木戸孝允ら長州派が外征反対を唱えたため、いったん征討中止を決定します。
しかし、兵員3,600人を率いて長崎に到着していた西郷従道は、政府の中止命令に応ぜず独断で出兵を実行しました。5月6日に台湾出兵の兵員が台湾南部に上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じ、5月22日に台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷従道の命令によって本格的な制圧を開始し、政府が追認することとなります。
6月3日に、牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けましたが、戦死者12名、病死者561名を出すこととなりました。清国は強く抗議し、北京での談判も難航したものの、駐清イギリス公使の斡旋で和議が成立、10月31日に「日清両国間互換条款及互換憑単」が調印され、11月17日に太政官布告されます。
その内容は、①清朝は日本の出兵を「義挙」と認め、②被害民の撫恤(ぶじゆつ)銀と日本の施設費として、償金50万両(日本貨約67万1650円)を日本に支払い、③今後の原住民取締りにつき保障する。というもので、これによって、同年12月に日本軍は撤退しました。また、清朝に琉球が日本領であることを認めさせたことにより、明治政府が1879年(明治12)に、琉球藩を廃止して沖縄県を置くという琉球処分(琉球併合)を可能にしています。
以下に、「日清両国間互換条款及互換憑単」の日本語版を掲載しておきますので、ご参照下さい。
1872年(明治5)に、琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し、責任追及の出兵を建議し、副島が特命全権大使として日清条約批准書交換のため清に赴いたとき、副使柳原前光をして台湾漂流民の問題を交渉させました。しかし、1873年(明治6)には、再度備中国浅口郡柏島村(現在の岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が発生します。
そこで、1874年(明治7)2月6日に、明治政府が、大久保利通・大隈重信両参議によって提出された「台湾蕃地処分要略」により、台湾出兵を閣議決定しました。参議の大隈重信を台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入りましたが、イギリス、アメリカが強く反対し、政府内でも木戸孝允ら長州派が外征反対を唱えたため、いったん征討中止を決定します。
しかし、兵員3,600人を率いて長崎に到着していた西郷従道は、政府の中止命令に応ぜず独断で出兵を実行しました。5月6日に台湾出兵の兵員が台湾南部に上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じ、5月22日に台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷従道の命令によって本格的な制圧を開始し、政府が追認することとなります。
6月3日に、牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けましたが、戦死者12名、病死者561名を出すこととなりました。清国は強く抗議し、北京での談判も難航したものの、駐清イギリス公使の斡旋で和議が成立、10月31日に「日清両国間互換条款及互換憑単」が調印され、11月17日に太政官布告されます。
その内容は、①清朝は日本の出兵を「義挙」と認め、②被害民の撫恤(ぶじゆつ)銀と日本の施設費として、償金50万両(日本貨約67万1650円)を日本に支払い、③今後の原住民取締りにつき保障する。というもので、これによって、同年12月に日本軍は撤退しました。また、清朝に琉球が日本領であることを認めさせたことにより、明治政府が1879年(明治12)に、琉球藩を廃止して沖縄県を置くという琉球処分(琉球併合)を可能にしています。
以下に、「日清両国間互換条款及互換憑単」の日本語版を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「日清両国間互換条款及互換憑単」1874年(明治7)10月30日調印、11月17日太政官布告
互換條款
条款ヲ会議シ、互ヒニ弁法ノ文拠ヲ立ル為メノ事、照シ得タリ各国人民、応サニ保護シテ害ヲ受ルヲ致サザルベキノ処有レハ、応サニ各国由リ自カラ法ヲ設ケ保全ヲ行フベシ、何国ニ在テ事有ルガ如キハ、応サニ何国由リ自カラ査弁ヲ行フベシ、茲ニ台湾生蕃曾テ日本国ノ属民等ヲ将{前1文字モツとルビ}テ、妄リニ害ヲ加フルコトヲ為スヲ以テ、日本国ノ本意ハ該{前1文字ソノとルビ}蕃ヲ是レ問フガ爲メ、遂ニ兵ヲ遣リ彼ニ往キ該{前1文字ソノとルビ}生蕃題等ニ向ヒ詰責ヲナセリ、今淸国ト、兵ヲ退キ並ヒニ後ヲ善クスル弁法ヲ議明シ三条ヲ後ニ開列ス、
一 日本国此次弁スル所ハ、原卜民ヲ保ツ義挙ノ為メニ見ヲ起ス、清国指テ以テ不是卜為サス、
二 前次有ル所ノ害ニ遭フ難民之家ハ、清国定テ恤銀両ヲ給スベシ、日本有ル所ノ該{前1文字ソノとルビ}処ニ在テ、道ヲ修メ房ヲ建ル等件ハ、清国留メテ自カラ用ユルヲ願ヒ、先ツ籌補{前2文字ハカリヲギナウとルビ}ヲ議定スルヲ行ヒ、銀兩ハ別ニ議辨{前2文字ハカリベンズルとルビ}スルノ拠{前1文字シヨフコとルビ}有リ、
三 有ル所ノ此ノ事ニツキ両国一切来往ノ公文ハ、彼此徹囘シテ註鎖シ、永ク為メニ論ヲ罷ム、該{前1文字ソノとルビ}處ノ生蕃ニ至ツテハ、清国自カラ宜ク法ヲ設ケ、妥ク約束ヲ為スヘシ、以テ永ク航客ヲ保シ、再ヒ兇害ヲ受ケシム能ハザルコトヲ期ス
明治七年十月三十一日
大日本欽差全権大臣柳原 加押
同治十三年九月二十二日
互換憑單
憑單ヲ会議スル為メノ事、台蕃ノ一事、現在業{前1文字スデとルビ}ニ英国威大臣、両国ト同{前1文字トモとルビ}ニ議明シ、並ニ本日互ニ弁法文拠ヲ立ツルヲ経{前1文字ヘとルビ}タリ、
日本国従前害ヲ被ムル難民之家、清国先ツ撫䘏銀十万両{前1文字テールとルビ}ヲ給ス、又日本兵ヲ退クヤ、台地ニ在テ有ル拠ノ道ヲ修メ房ヲ建ツル等件、清国留メテ自カラ用ユルコトヲ願ヒ、費銀四十万両{前1文字テールとルビ}ヲ給ス、亦タ議定ヲ経テ、
日本国明治七年十二月二十日
清国同治十三年十一月十二日ニ於テ、
日本国全ク退兵ヲ行フヲ准ス、
清国全数不給スルコトヲ准ス、均ク期ヲ愆ツヲ得ス
日本国兵未タ全数退キ盡スヲ経ザルノ時ハ清国銀両モ亦タ全数付給セズ、此ヲ立テ拠ト為シ、彼此各〃一紙ヲ執テ存照ス、
明治七年十月 花押 日
大日本欽差全権大臣柳原 加押 花押
同治十三年九月
外務省条約局編「舊條約彙纂 第一巻第一部」より
☆台湾出兵関係略年表
<1871年(明治4)>
・10月、宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難して台湾南部に漂着し、台湾先住民パイワン族に救助を求めたが、逆に集落へ拉致される
・12月17日 遭難者たちは集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し、54名を斬首(宮古島島民遭難事件)、12名は漢人移民により救助される
<1872年(明治5)>
・琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し、責任追及の出兵を建議する
・6月 副島が特命全権大使として日清条約批准書交換のため清に赴いたとき、副使柳原前光をして台湾漂流民の問題を交渉させる
<1873年(明治6)>
・備中国浅口郡柏島村(現在の岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が発生する
<1874年(明治7)>
・1月 岩倉具視暗殺未遂事件が起きる
・2月 江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こる
・2月6日 明治政府が、大久保利通・大隈重信両参議によって提出された「台湾蕃地処分要略」により、台湾出兵を閣議決定する
・4月 参議の大隈重信を台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入る
・5月6日 台湾出兵の兵員が台湾南部に上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じる
・5月22日 台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷従道の命令によって本格的な制圧を開始する
・6月3日 牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続ける(戦死者12名、病死者561名)
・10月31日 「日清両国間互換条款及互換憑単」が調印される
・11月17日 「日清両国間互換条款及互換憑単」が太政官布告される
・12月 日本軍が台湾から撤退する
<1875年(明治8)>
・琉球に対し清との冊封・朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令する
<1879年(明治12)>
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