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 今日は、幕末明治維新期の1866年(慶応2)に、仏教学者・チベット探検家河口慧海の生まれた日ですが、新暦では2月26日となります。
 河口慧海(かわぐち えかい)は、摂津国住吉郡堺山伏町(現在の大阪府堺市堺区北旅籠町)において、樽桶製造業を営む父・河口善吉と母・常(つね)の長男として生まれましたが、幼名は定治郎と言いました。1872年(明治6)に泉州第二番錦西小学校に入学しましたが、1877年(明治10)に退学(当時は8年制)し、家業を手伝いつつ、夜学へ通学するようになり、1880年(明治13)には、釈迦の伝記を読んで強く仏教に惹かれ、禁酒・禁肉食・不淫の誓いをたてます。
 1884年(明治17)に「徴兵令」改正に不当を感じ、天皇への直訴の為上京しましたが、未遂に終わり、1886年(明治19)には、京都の同志社英学校に通学を始めたものの、学費困窮から退学し、堺市に戻りました。1888年(明治21)に宿院小学校の教員となったものの、翌年上京し、井上円了が東京市に創設した哲学館(東洋大学の前身)で外生として学び、1890年(明治23)には、黄檗宗の五百羅漢寺で得度を受け、慧海仁広(えかいじんこう)と名付けられます。
 1892年(明治25)に哲学館の学科終了に伴い住職を辞し、大阪妙徳寺に入り、禅宗を学ぶ傍ら一切蔵経を読み、1893年(明治26)には、チベット行きを想起、以後スリランカ留学から戻ってきた釈興然の元でパーリ語を習うなどしてその準備に当たりました。1897年(明治30)に仏教の原典研究の必要性を感じてインドに渡り、チベット語を習得、1899年(明治32)には、ネパールを経由して、ダウラギリ山を越えて、セレー・アムチ (セラの医師) と僭称し、日本人としては初めて鎖国状態のチベットに入国、セラ大学に学びます。
 しかし、日本人であることが露見し、1902年(明治35)に英領インドのダージリンに脱出、翌年には、ネパールで梵語仏典を集めて帰国しました。1904年(明治37)に、この旅をまとめて、『西蔵旅行記』を出版、1905年(明治38)には、再びインドに渡り、梵語仏典を集め、年末から翌年にかけて、にインド訪問中のパンチェン・ラマと接触します。
 1909年(明治42)に『西蔵旅行記』を“Three Years in Tibet”の題でロンドンの出版社から刊行、亡命中のダライ・ラマとも会見しました。1913年(大正2)に再びチベット行きを志し、1914年(大正3)にシガツェ経由でラサに至り、1915年(大正4)には、両大ラマから写本カンギュルとナルタン版大蔵経を受けとって、日本へ帰国します。
 1921年(大正10)に黄檗宗に僧籍を返上し、在家仏教を提唱、1926年(大正15)に還暦に際し還俗を発表、『在家仏教』を出版、大正大学チベット語教授に就任しました。1929年(昭和4)に中国亡命中のパンチェン・ラマを訪ね、1936年(昭和11)には、『西蔵(チベット)文典』を刊行しています。
 “チベット学”の祖とも言われ、晩年には、『蔵和辞典』編纂を始めたものの、未完の内に、1945年(昭和20)2月24日に、東京において、脳溢血のため、78歳で亡くなっています。

〇河口慧海の主要な著作

・『西蔵旅行記』(1904年)
・『梵蔵伝訳・国訳 法華経』(1924年)
・『在家仏教』(1926年)
・『漢蔵対照・国訳 維摩経』(1928年)
・『西蔵(チベット)文典』(1936年)
・『西蔵語読本』(1937年)

☆河口慧海関係略年表

・1866年(慶応2年1月12日) 摂津国住吉郡堺山伏町(現在の大阪府堺市堺区北旅籠町)において、樽桶製造業を営む父・河口善吉と母・常(つね)の長男として生まれる
・1872年(明治6) 泉州第二番錦西小学校に入学する
・1877年(明治10) 泉州第二番錦西小学校を退学(当時は8年制)する
・1880年(明治13) 釈迦の伝記を読んで強く仏教に惹かれ、禁酒・禁肉食・不淫の誓いをたてる
・1884年(明治17) 「徴兵令」改正に不当を感じ、天皇への直訴の為上京しましたが、未遂に終わる
・1886年(明治19) 京都の同志社英学校に通学を始めるが、学費困窮から退学し、堺市に戻る
・1888年(明治21) 宿院小学校の教員となる
・1889年(明治22) 上京し、井上円了が東京市に創設した哲学館(東洋大学の前身)で外生として学ぶ 
・1890年(明治23) 黄檗宗の五百羅漢寺で得度を受け、慧海仁広(えかいじんこう)と名付けられる
・1892年(明治25) 哲学館の学科終了に伴い住職を辞し、大阪妙徳寺に入り、禅宗を学ぶ傍ら一切蔵経を読む
・1893年(明治26) チベット行きを想起、以後スリランカ留学から戻ってきた釈興然の元でパーリ語を習うなどしてその準備に当たる
・1897年(明治30) 神戸港より和泉丸に乗船し、チベット入りを目してインドへ向か、サラット・チャンドラ・ダースの別荘のあるダージリンに到着、当地にてチベット語を学ぶ
・1899年(明治32) 約1年間のチベット語就学後、カルカッタへ戻り、ブッダガヤを参拝し、ダンマパーラ居士より法王ダライ・ラマへの献上品を託される、ネパールの首府・カトマンズに到着、北部のツァーラン村でチベットへ入る道を探る
・1900年(明治33) チベットを目指すため、ツァーラン村を出立、ドーラギリーの北方の雪峰を踏破し、ネパール側よりチベット国境に到達、マナサルワ湖やカイラス山を巡礼した後、公道を通ってラサを目指す
・1901年(明治34) チベット・ラサに到着、セラ寺の大学の入学試験を受け合格し、修学僧侶として籍を置き、チベット仏教の学習や経典の蒐集などをして過ごす
・1902年(明治35) 約1年2ヶ月余りの滞在後、ラサを脱出、五重の関所を3日程で抜け、国境を超えて英領インドに入り、ダージリンのサラット・チャンドラ・ダースの別荘に到着後、大熱病にかかり、当地で3ヶ月程療養する
・1903年(明治36) ネパール国王に謁見するためにカルカッタを出立し、ネパールを目指す、カトマンズにて、チベット法王宛てに書き認めた上書をネパール国王を通じて送ることを許され、インド・ボンベイよりボンベイ丸に乗船し、香港を経由し、神戸港に到着し帰国を果たし、『西蔵旅行記』を新聞に発表する
・1904年(明治37) 『西蔵旅行記』を出版する
・1905年(明治38) 再びインドに渡り、梵語仏典を集め、年末にインド訪問中のパンチェン・ラマと接触する
・1909年(明治42) 『西蔵旅行記』を“Three Years in Tibet”の題でロンドンの出版社から刊行、亡命中のダライ・ラマとも会見する
・1913年(大正2) 再びチベットに入る
・1914年(大正3) シガツェ経由でラサに至る
・1915年(大正4) 両大ラマから写本カンギュルとナルタン版大蔵経を受けとって、日本へ帰国する
・1921年(大正10) 黄檗宗に僧籍を返上し、在家仏教を提唱する
・1926年(大正15) 還暦に際し還俗を発表、『在家仏教』を出版、大正大学チベット語教授に就任する
・1929年(昭和4) 中国亡命中のパンチェン・ラマを訪ねる
・1936年(昭和11) 『西蔵(チベット)文典』を刊行する
・1945年(昭和20)2月24日 東京において、脳溢血のため、78歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1869年(明治2)洋画家岡田三郎助の誕生日(新暦1月22日)詳細
1874年(明治7)板垣退助らが日本初の政党となる愛国公党を結成する詳細
1903年(明治36)日本画家岩橋英遠の誕生日詳細
1914年(大正3)桜島大正大噴火が始まる詳細
1954年(昭和29)文化財保護委員会が奈良市・大和郡山市の平城京跡の発掘を開始する詳細
2019年(平成31)哲学者梅原猛の命日詳細