
河口慧海(かわぐち えかい)は、摂津国住吉郡堺山伏町(現在の大阪府堺市堺区北旅籠町)において、樽桶製造業を営む父・河口善吉と母・常(つね)の長男として生まれましたが、幼名は定治郎と言いました。1872年(明治6)に泉州第二番錦西小学校に入学しましたが、1877年(明治10)に退学(当時は8年制)し、家業を手伝いつつ、夜学へ通学するようになり、1880年(明治13)には、釈迦の伝記を読んで強く仏教に惹かれ、禁酒・禁肉食・不淫の誓いをたてます。
1884年(明治17)に「徴兵令」改正に不当を感じ、天皇への直訴の為上京しましたが、未遂に終わり、1886年(明治19)には、京都の同志社英学校に通学を始めたものの、学費困窮から退学し、堺市に戻りました。1888年(明治21)に宿院小学校の教員となったものの、翌年上京し、井上円了が東京市に創設した哲学館(東洋大学の前身)で外生として学び、1890年(明治23)には、黄檗宗の五百羅漢寺で得度を受け、慧海仁広(えかいじんこう)と名付けられます。
1892年(明治25)に哲学館の学科終了に伴い住職を辞し、大阪妙徳寺に入り、禅宗を学ぶ傍ら一切蔵経を読み、1893年(明治26)には、チベット行きを想起、以後スリランカ留学から戻ってきた釈興然の元でパーリ語を習うなどしてその準備に当たりました。1897年(明治30)に仏教の原典研究の必要性を感じてインドに渡り、チベット語を習得、1899年(明治32)には、ネパールを経由して、ダウラギリ山を越えて、セレー・アムチ (セラの医師) と僭称し、日本人としては初めて鎖国状態のチベットに入国、セラ大学に学びます。
しかし、日本人であることが露見し、1902年(明治35)に英領インドのダージリンに脱出、翌年には、ネパールで梵語仏典を集めて帰国しました。1904年(明治37)に、この旅をまとめて、『西蔵旅行記』を出版、1905年(明治38)には、再びインドに渡り、梵語仏典を集め、年末から翌年にかけて、にインド訪問中のパンチェン・ラマと接触します。
1909年(明治42)に『西蔵旅行記』を“Three Years in Tibet”の題でロンドンの出版社から刊行、亡命中のダライ・ラマとも会見しました。1913年(大正2)に再びチベット行きを志し、1914年(大正3)にシガツェ経由でラサに至り、1915年(大正4)には、両大ラマから写本カンギュルとナルタン版大蔵経を受けとって、日本へ帰国します。
1921年(大正10)に黄檗宗に僧籍を返上し、在家仏教を提唱、1926年(大正15)に還暦に際し還俗を発表、『在家仏教』を出版、大正大学チベット語教授に就任しました。1929年(昭和4)に中国亡命中のパンチェン・ラマを訪ね、1936年(昭和11)には、『西蔵(チベット)文典』を刊行しています。
“チベット学”の祖とも言われ、晩年には、『蔵和辞典』編纂を始めたものの、未完の内に、1945年(昭和20)2月24日に、東京において、脳溢血のため、78歳で亡くなっています。
1884年(明治17)に「徴兵令」改正に不当を感じ、天皇への直訴の為上京しましたが、未遂に終わり、1886年(明治19)には、京都の同志社英学校に通学を始めたものの、学費困窮から退学し、堺市に戻りました。1888年(明治21)に宿院小学校の教員となったものの、翌年上京し、井上円了が東京市に創設した哲学館(東洋大学の前身)で外生として学び、1890年(明治23)には、黄檗宗の五百羅漢寺で得度を受け、慧海仁広(えかいじんこう)と名付けられます。
1892年(明治25)に哲学館の学科終了に伴い住職を辞し、大阪妙徳寺に入り、禅宗を学ぶ傍ら一切蔵経を読み、1893年(明治26)には、チベット行きを想起、以後スリランカ留学から戻ってきた釈興然の元でパーリ語を習うなどしてその準備に当たりました。1897年(明治30)に仏教の原典研究の必要性を感じてインドに渡り、チベット語を習得、1899年(明治32)には、ネパールを経由して、ダウラギリ山を越えて、セレー・アムチ (セラの医師) と僭称し、日本人としては初めて鎖国状態のチベットに入国、セラ大学に学びます。
しかし、日本人であることが露見し、1902年(明治35)に英領インドのダージリンに脱出、翌年には、ネパールで梵語仏典を集めて帰国しました。1904年(明治37)に、この旅をまとめて、『西蔵旅行記』を出版、1905年(明治38)には、再びインドに渡り、梵語仏典を集め、年末から翌年にかけて、にインド訪問中のパンチェン・ラマと接触します。
1909年(明治42)に『西蔵旅行記』を“Three Years in Tibet”の題でロンドンの出版社から刊行、亡命中のダライ・ラマとも会見しました。1913年(大正2)に再びチベット行きを志し、1914年(大正3)にシガツェ経由でラサに至り、1915年(大正4)には、両大ラマから写本カンギュルとナルタン版大蔵経を受けとって、日本へ帰国します。
1921年(大正10)に黄檗宗に僧籍を返上し、在家仏教を提唱、1926年(大正15)に還暦に際し還俗を発表、『在家仏教』を出版、大正大学チベット語教授に就任しました。1929年(昭和4)に中国亡命中のパンチェン・ラマを訪ね、1936年(昭和11)には、『西蔵(チベット)文典』を刊行しています。
“チベット学”の祖とも言われ、晩年には、『蔵和辞典』編纂を始めたものの、未完の内に、1945年(昭和20)2月24日に、東京において、脳溢血のため、78歳で亡くなっています。
〇河口慧海の主要な著作
・『西蔵旅行記』(1904年)
・『梵蔵伝訳・国訳 法華経』(1924年)
・『在家仏教』(1926年)
・『漢蔵対照・国訳 維摩経』(1928年)
・『西蔵(チベット)文典』(1936年)
・『西蔵語読本』(1937年)
☆河口慧海関係略年表
・1866年(慶応2年1月12日) 摂津国住吉郡堺山伏町(現在の大阪府堺市堺区北旅籠町)において、樽桶製造業を営む父・河口善吉と母・常(つね)の長男として生まれる
・1872年(明治6) 泉州第二番錦西小学校に入学する
・1877年(明治10) 泉州第二番錦西小学校を退学(当時は8年制)する
・1880年(明治13) 釈迦の伝記を読んで強く仏教に惹かれ、禁酒・禁肉食・不淫の誓いをたてる
・1884年(明治17) 「徴兵令」改正に不当を感じ、天皇への直訴の為上京しましたが、未遂に終わる
・1886年(明治19) 京都の同志社英学校に通学を始めるが、学費困窮から退学し、堺市に戻る
・1888年(明治21) 宿院小学校の教員となる
・1889年(明治22) 上京し、井上円了が東京市に創設した哲学館(東洋大学の前身)で外生として学ぶ
・1890年(明治23) 黄檗宗の五百羅漢寺で得度を受け、慧海仁広(えかいじんこう)と名付けられる
・1892年(明治25) 哲学館の学科終了に伴い住職を辞し、大阪妙徳寺に入り、禅宗を学ぶ傍ら一切蔵経を読む
・1893年(明治26) チベット行きを想起、以後スリランカ留学から戻ってきた釈興然の元でパーリ語を習うなどしてその準備に当たる
・1897年(明治30) 神戸港より和泉丸に乗船し、チベット入りを目してインドへ向か、サラット・チャンドラ・ダースの別荘のあるダージリンに到着、当地にてチベット語を学ぶ
・1899年(明治32) 約1年間のチベット語就学後、カルカッタへ戻り、ブッダガヤを参拝し、ダンマパーラ居士より法王ダライ・ラマへの献上品を託される、ネパールの首府・カトマンズに到着、北部のツァーラン村でチベットへ入る道を探る
・1900年(明治33) チベットを目指すため、ツァーラン村を出立、ドーラギリーの北方の雪峰を踏破し、ネパール側よりチベット国境に到達、マナサルワ湖やカイラス山を巡礼した後、公道を通ってラサを目指す
・1901年(明治34) チベット・ラサに到着、セラ寺の大学の入学試験を受け合格し、修学僧侶として籍を置き、チベット仏教の学習や経典の蒐集などをして過ごす
・1902年(明治35) 約1年2ヶ月余りの滞在後、ラサを脱出、五重の関所を3日程で抜け、国境を超えて英領インドに入り、ダージリンのサラット・チャンドラ・ダースの別荘に到着後、大熱病にかかり、当地で3ヶ月程療養する
・1903年(明治36) ネパール国王に謁見するためにカルカッタを出立し、ネパールを目指す、カトマンズにて、チベット法王宛てに書き認めた上書をネパール国王を通じて送ることを許され、インド・ボンベイよりボンベイ丸に乗船し、香港を経由し、神戸港に到着し帰国を果たし、『西蔵旅行記』を新聞に発表する
・1904年(明治37) 『西蔵旅行記』を出版する
・1905年(明治38) 再びインドに渡り、梵語仏典を集め、年末にインド訪問中のパンチェン・ラマと接触する
・1909年(明治42) 『西蔵旅行記』を“Three Years in Tibet”の題でロンドンの出版社から刊行、亡命中のダライ・ラマとも会見する
・1913年(大正2) 再びチベットに入る
・1914年(大正3) シガツェ経由でラサに至る
・1915年(大正4) 両大ラマから写本カンギュルとナルタン版大蔵経を受けとって、日本へ帰国する
・1921年(大正10) 黄檗宗に僧籍を返上し、在家仏教を提唱する
・1926年(大正15) 還暦に際し還俗を発表、『在家仏教』を出版、大正大学チベット語教授に就任する
・1929年(昭和4) 中国亡命中のパンチェン・ラマを訪ねる
・1936年(昭和11) 『西蔵(チベット)文典』を刊行する
・1945年(昭和20)2月24日 東京において、脳溢血のため、78歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1869年(明治2) | 洋画家岡田三郎助の誕生日(新暦1月22日) | 詳細 | |||||
1874年(明治7) | 板垣退助らが日本初の政党となる愛国公党を結成する | 詳細 | |||||
1903年(明治36) | 日本画家岩橋英遠の誕生日 | 詳細 | |||||
1914年(大正3) | 桜島大正大噴火が始まる | 詳細 | |||||
1954年(昭和29) | 文化財保護委員会が奈良市・大和郡山市の平城京跡の発掘を開始する | 詳細 | |||||
2019年(平成31) | 哲学者梅原猛の命日 | 詳細 |
コメント