今日は、昭和時代中期の1952年(昭和27)に、壺井栄著の『二十四の瞳』が刊行された日です。
『二十四の瞳』(にじゅうしのひとみ)は、壺井栄著の長編小説でした。昭和時代中期の1952年(昭和27)に、キリスト教系の青年雑誌『ニュー・エイジ』に連載され、同年12月10日に光文社から刊行されます。
瀬戸内海のある岬の分教場に勤める若い女性教師大石先生と12人の教え子を主人公として、1928年(昭和3)から戦争に突入し、敗戦に至る時代の受難と心のふれあいを抒情的に描いた作品でした。日本の軍国主義化、中国への侵略、太平洋戦争、そして敗戦へとつながる時代を背景にし、反戦・平和の主題を展開させています。
1954年(昭和29)に、木下恵介監督で映画化(出演:高峰秀子)され、大ヒットし、第28回キネマ旬報ベストテンの日本映画ベストワン作品、ゴールデングローブ賞外国語映画賞を受賞しました。さらに、1987年(昭和62)に朝間義隆監督により、再映画化されます。小豆島には、再映画化時のオープンセットを活用した「二十四の瞳映画村」が出来ました。
瀬戸内海のある岬の分教場に勤める若い女性教師大石先生と12人の教え子を主人公として、1928年(昭和3)から戦争に突入し、敗戦に至る時代の受難と心のふれあいを抒情的に描いた作品でした。日本の軍国主義化、中国への侵略、太平洋戦争、そして敗戦へとつながる時代を背景にし、反戦・平和の主題を展開させています。
1954年(昭和29)に、木下恵介監督で映画化(出演:高峰秀子)され、大ヒットし、第28回キネマ旬報ベストテンの日本映画ベストワン作品、ゴールデングローブ賞外国語映画賞を受賞しました。さらに、1987年(昭和62)に朝間義隆監督により、再映画化されます。小豆島には、再映画化時のオープンセットを活用した「二十四の瞳映画村」が出来ました。
〇小説『二十四の瞳』の冒頭部分一小石先生
一 小石先生
十年をひと昔というならば、この物語の発端は今からふた昔半もまえのことになる。世の中のできごとはといえば、選挙の規則があらたまって、普通選挙法というのが生まれ、二月にその第一回の選挙がおこなわれた、二か月後のことになる。昭和三年四月四日。農山漁村の名が全部あてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村へ、若い女の先生が赴任してきた。
百戸あまりの小さなその村は、入り江の海を湖のような形にみせる役をしている細長い岬の、そのとっぱなにあったので、対岸の町や村へゆくには小舟で渡ったり、うねうねとまがりながらつづく岬の山道をてくてく歩いたりせねばならない。交通がすごくふべんなので、小学校の先徒は四年までが村の分教場にゆき、五年になってはじめて、片道五キロの木村の小学校へかようのである。手作りのわらぞうりは一日できれ た。それがみんなはじまんであった。毎朝、新らしいぞうりをおろすのは、うれしかったにちがいない。………
「青空文庫」より
☆壺井栄(つぼい さかえ)とは?
昭和時代に活躍した小説家・童話作家で、1899年(明治32年)8月5日に、香川県小豆郡坂手村(現在の小豆島町)の醤油樽職人岩井藤吉の五女として生まれました。内海高等小学校卒業後,郵便局や村役場などで働きながら、同郷の黒島伝治,壺井繁治らの影響を受けます。
1925年(大正14)に上京後、プロレタリア詩人だった壺井繁治と結婚し、プロレタリア文学運動を通じて宮本百合子、佐多稲子を知るようになりました。創作活動を始めて、38歳のとき処女作『大根の葉』を発表、以後小説と童話の多彩な作品を作ります。
代表作として、小説に『暦』、『妻の座』、『柿の木のある家』、『母のない子と子のない母と』などがあり、『二十四の瞳』は、戦後反戦文学の名作として、後に映画化され大ヒットしました。童話集に『海のたましひ』、『十五夜の月』などがあり、童話風、民話風の作品で認められることになります。しかし、1967年(昭和42)6月23日に、67歳で亡くなっています。
1925年(大正14)に上京後、プロレタリア詩人だった壺井繁治と結婚し、プロレタリア文学運動を通じて宮本百合子、佐多稲子を知るようになりました。創作活動を始めて、38歳のとき処女作『大根の葉』を発表、以後小説と童話の多彩な作品を作ります。
代表作として、小説に『暦』、『妻の座』、『柿の木のある家』、『母のない子と子のない母と』などがあり、『二十四の瞳』は、戦後反戦文学の名作として、後に映画化され大ヒットしました。童話集に『海のたましひ』、『十五夜の月』などがあり、童話風、民話風の作品で認められることになります。しかし、1967年(昭和42)6月23日に、67歳で亡くなっています。
<壺井栄の主要な作品>
・『暦 他五篇』新潮社 1940年
・『祭着 他九篇』河出書房 1940年
・『たんぽぽ』高山書院 1941年
・『ともしび』博文館 1941年
・『船路』有光社 1941年
・『私の雑記帳』青磁社 1941年
・『石 短篇集』全国書房 1942年
・『子熊座』三杏書院 1943年
・『女傑の村』実業之日本社 1943年
・『海のたましひ』講談社 少国民の日本文庫 1944年
・『花のいのち』葛城書店 1944年
・『夕顔の言葉』紀元社 1944年年
・『松のたより』飛鳥書店 1945年
・『ふたたび』万里閣 1946年
・『赤いステッキ』櫻井書店 少年のための純文學選 1947年
・『霧の街』北桜社 1947年
・『三夜待ち』新紀元社 1947年
・『十五夜の月』愛育社 1947年
・『あんずの花の咲くころ』小峰書店 青空文庫 1948年
・『海べの村の子供たち』雁書房 1948年
・『おみやげ』好江書房 1948年
・『渋谷道玄坂』新日本文学会 1948年
・『小さな物語』桜井書店 こどもかい文庫 1948年
・『柳の糸』東西社 1948年
・『柿の木のある家』山の木書店 1949年
・『たからの宿』弘文堂 アテネ文庫 1949年
・『妻の座』冬芽書房 1949年
・『母のない子と子のない母と』光文社 1951年
・『右文覚え書』三十書房 1951年
・『港の少女』西荻書店 三色文庫 1951年
・『坂道』中央公論社 ともだちシリーズ 1952年
・『二十四の瞳』光文社 1952年
・『花はだれのために』東洋書館 1952年
・『妻の座・暦』角川文庫 1953年
・『私の花物語』筑摩書房 1953年
・『風 連作小説』光文社カッパ・ブックス 1954年
・『紙一重』中央公論社 1954年
・『岸うつ波』光文社 1954年
・『月夜の傘』筑摩書房 1954年
・『一本のマッチ 私の人生遍歴』朝日新聞社 1955年
・『美しい生き方を求めて』学風書院 1955年
・『まないたの歌』角川小説新書 1955年
・『続・私の花物語 第1』筑摩書房 1956年
・『裲襠』大日本雄弁会講談社 1956年
・『雑居家族』筑摩書房 1956年
・『裾野は暮れて』筑摩書房 1956年
・『寄るべなき人々』新潮文庫 1956年
・『海風』角川文庫 1957年
・『草の実』中央公論社 1957年
・『極楽横丁』筑摩書房 1957年
・『小さな花の物語』平凡出版 1957年
・『忘れ霜』角川書店 1957年
・『あたたかい右の手』麦書房 雨の日文庫 1958年
・『潮時計』実業之日本社 1958年
・『風と波と』文芸春秋新社 1958年
・『雨夜の星』講談社 1959年
・『おこまさん』中央公論社 1959年
・『随筆柚の大馬鹿』実業之日本社 1959年
・『いのちかなし』新潮社 1960年
・『大根の葉』角川文庫 1960年
・『どこかでなにかが』中央公論社 1960年
・『ふたごのころちゃん』実業之日本社 1960年
・『あす咲く花』新潮社 1962年
・『あすの花嫁』東方社 家庭小説選書 1962年
・『若い樹々』講談社 1962年
・『若い娘たち』角川小説新書 1962年
・『まあちゃんと子ねこ』ポプラ社 1963年
・『小豆島 随筆・小説』光風社 1964年
・『母と子の暦』東方社 1964年
・『日めくり』講談社 1964年
・『柚原小はな』新潮社 1964年
・『嫁さん』集英社 1964年
・『袖ふりあう』三月書房 1965年
・『母と娘と』新潮社 1965年
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1186年(文治2) | 鎌倉幕府が九州の御家人統率・軍事統括の為の鎮西奉行を設置する(新暦1187年1月21日) | 詳細 |
1901年(明治34) | 田中正造が足尾鉱毒問題について、明治天皇へ直訴しようとする | 詳細 |
1943年(昭和18) | 社団法人日本玩具統制協会から子供向けの「愛国イロハカルタ」が発行される | 詳細 |
文部省が「疎開ニ伴フ生徒児童取扱ヒ措置ニ関スル新聞発表」を行い、生徒・児童の縁故疎開を促進する | 詳細 | |
1948年(昭和23) | 国連総会で「世界人権宣言」が採択される | 詳細 |
1997年(平成9) | 山陽自動車道(神戸JCT~山口JCT)が全通する | 詳細 |
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