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 今日は、平成時代の1998年(平成10)に、気象学者藤田哲也の亡くなった日です。
 藤田哲也(ふじた てつや)は、大正時代の1920年(大正9)10月23日に、福岡県企救郡曽根村(現在の北九州市小倉南区)において、生まれました。旧制小倉中学校(現在の福岡県立小倉高等学校)を経て、1939年(昭和14)に、明治専門学校(現在の九州工業大学)工学部機械工学科へ入学します。
 1940年(昭和15) 阿蘇や姶良カルデラなどの立体図を完成(松本唯一教授の学位論文に掲載)し、1943年(昭和18)には、明治専門学校工学部機械科を卒業し、同大学で助手、続いて物理学助教授に就任しました。1945年(昭和20)に広島および長崎への原爆投下を受けて、それらの被害調査に派遣され、爆心地や炸裂高度特定し、風の地上絵を発見しました。1946年(昭和21)に桜島大噴火の調査を5名の学生を同行して実施、翌年には、脊振山頂で下降気流の観測を実施、現在のみやま市 (瀬高、山川、高田町が合併) の「江の浦」で起こった竜巻を調査しています。
 1949年(昭和24)に明治専門学校が新制で九州工業大学に変わり、その助教授となり、1950年(昭和25)には、論文「Micro-analytical study of thunder-nose」を発表しました。1953年(昭和28)に、東京大学で理学博士号を取得し、シカゴ大学の教授から招聘され、渡米して同大学の気象学客員研究員となります。
 1956年(昭和31)に米国へ家族と共に移住し、シカゴ大学研究教授(上級気象学者)となり、1957年(昭和32)には、ノースダコタ州のファーゴ市で発生した強い竜巻について、渡米後の初調査として行いました。1959年(昭和34)に第3回岡田賞(日本気象学会)を受賞、母校に天文台「愛宕ドーム」を建設、「藤田賞」を設け、1960年(昭和35)には、「Mother cloud of the Fargo tornadoes of 20 June, 1957」の論文で、竜巻の親雲の存在を確認します。
 1962年(昭和37)にシカゴ大学気象学准教授となり、1965年(昭和40)に同大学教授に昇任、九州工業大学の第2回嘉村賞を受賞、1967年(昭和42)には、アメリカ気象学会マイジンガー賞を受賞しました。1968年(昭和43)にアメリカ市民権を取得、1971年(昭和46)には、竜巻の規模を示す藤田スケール (F-Scale) を考案します。
 1975年(昭和50)にジョン・F・ケネディ国際空港で発生した航空機事故の調査を行い、ダウンバーストの研究を本格化させ、1979年(昭和54)には、ドップラー・レーダーによりダウンバーストが予測可能であることを立証しました。1982年(昭和57)にJAWSプロジェクト実施、マイクロバーストを同定し、航空事故防止法を提案、1987年(昭和62)には、アメリカ気象学会応用気象学賞を受賞、1989年(平成元)には、「マイクロ・バーストの発見による航空安全への功績」で、フランス国立航空宇宙アカデミー賞・金メダルを授与されます。
 1990年(平成2)にシカゴ大学を定年となり、日本気象学会藤原賞を受賞、1991年(平成3)にシカゴ大学名誉教授となり、勲二等瑞宝章を受章、1992年(平成4)には、第39回交通文化賞を受賞しました。1996年(平成8)には、自伝自伝『ある気象学者の一生(和文)』を出版しましたが、1998年(平成10)11月19日に、アメリカ・シカゴの自宅において、糖尿病により、78歳で亡くなっています。

〇藤田哲也の主要な著作

・『たつまき・上』(1973年)
・自伝『ある気象学者の一生(和文)』(1996年)

☆藤田哲也関係略年表

・1920年(大正9)10月23日 福岡県企救郡曽根村(現在の北九州市小倉南区)において、生まれる
・1933年(昭和8) 小倉中学校(現在の福岡県立小倉高等学校)へ入学する
・1939年(昭和14) 小倉中学校を卒業し、明治専門学校(現在の九州工業大学)工学部機械工学科へ入学する
・1940年(昭和15) 阿蘇や姶良カルデラなどの立体図を完成する(松本唯一教授の学位論文に掲載)
・1943年(昭和18) 明治専門学校工学部機械科を卒業し、同大学で助手、続いて物理学助教授に就任する
・1945年(昭和20) 広島および長崎への原爆投下を受けて、それらの被害調査に派遣され、爆心地や炸裂高度特定し、風の地上絵を発見する
・1946年(昭和21) 桜島大噴火の調査を5名の学生を同行して実施する
・1947年(昭和22) 脊振山頂で下降気流の観測を実施、現在のみやま市 (瀬高、山川、高田町が合併) の「江の浦」で起こった竜巻を調査する
・1949年(昭和24) 明治専門学校が新制で九州工業大学に変わり、その助教授となる
・1950年(昭和25) 論文「Micro-analytical study of thunder-nose」を発表する
・1953年(昭和28) 東京大学で理学博士号を取得し、同年よりシカゴ大学の教授から招聘され、渡米して同大学の気象学客員研究員となる
・1956年(昭和31) 米国へ家族と共に移住し、シカゴ大学研究教授(上級気象学者)となる
・1957年(昭和32) ノースダコタ州のファーゴ市で発生した強い竜巻について、渡米後の初調査として行う
・1959年(昭和34) 第3回岡田賞(日本気象学会)を受賞、母校に天文台「愛宕ドーム」を建設、「藤田賞」を設ける
・1960年(昭和35)  「Mother cloud of the Fargo tornadoes of 20 June, 1957」の論文で、竜巻の親雲の存在を確認する
・1961年(昭和36) NOAA(米国海洋・大気庁)の援助で、3台の航空機を使って、回転雷雲を捕捉する
・1962年(昭和37) シカゴ大学気象学准教授となる
・1965年(昭和40) シカゴ大学教授に昇任、九州工業大学の第2回嘉村賞を受賞する
・1967年(昭和42) アメリカ気象学会マイジンガー賞を受賞する
・1968年(昭和43) アメリカ市民権を取得する。
・1971年(昭和46) 竜巻の規模を示す藤田スケール (F-Scale) を考案する
・1975年(昭和50) ジョン・F・ケネディ国際空港で発生した航空機事故の調査を行い、ダウンバーストの研究を本格化させる
・1976年(昭和51) ダウンバーストの存在を実証する。大竜巻の中に子竜巻があって、メリーゴーラウンドのようにぐるぐる回る二重構造の「親子竜巻」を論文で発表する
・1978年(昭和53) (1)NIMROD プロジェクト実施、ダウンバーストを同定し、マクロバーストとマイクロバーストに分類する
・1979年(昭和54) ドップラー・レーダーによりダウンバーストが予測可能であることを立証する
・1982年(昭和57) JAWS プロジェクト実施、マイクロバーストを同定、航空事故防止法を提案する
・1983年(昭和58) レーガン大統領の専用機エアフォースワンが着陸した6分後にダウンバーストが発生し、格納庫が破壊された事故が発生。米空軍が対策を講じる過程で、ダウンバースト論の正当性が認められる
・1984年(昭和59) 日本でも航空安全のための「ダウンバースト」対策で招聘、関係者に講演する
・1986年(昭和61) MIST プロジェクトで、「マイクロバースト」と雷雨の大規模な観測を実施する
・1987年(昭和62) アメリカ気象学会応用気象学賞を受賞する
・1989年(平成元) チャールズ・メリヤム特別貢献教授、「マイクロ・バーストの発見による航空安全への功績」で、フランス国立航空宇宙アカデミー賞・金メダルを授与される
・1990年(平成2) シカゴ大学を定年となり、日本気象学会藤原賞を受賞する
・1991年(平成3) シカゴ大学名誉教授とな、勲二等瑞宝章を受章する
・1992年(平成4) 第39回交通文化賞を受賞する 
・1996年(平成8) 自伝自伝『ある気象学者の一生(和文)』を出版する
・1998年(平成10)11月19日 アメリカ・シカゴの自宅において、糖尿病により、78歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1906年(明治39)京阪電気鉄道株式会社が設立される詳細
1947年(昭和22)「農業協同組合法」が公布される詳細
1956年(昭和31)米原~京都の電化により東海道本線の全線電化が完成する詳細
東京駅~博多駅間の夜行特急あさかぜが運行開始される詳細
1975年(昭和50)MK鋼を発明した冶金学者三島徳七の命日詳細
1993年(平成5)「環境基本法」が公布・施行される詳細